道友会のシンボル・リーフ:四葉のクローバー鎌倉彫道友会    鎌倉彫ノート

                            
『つくり手の気持ち・姿勢・ポリシー』

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“ものづくり”は人間の基本的な「本能」の一つであると思いますが、
そうした“本能的・文化的な営み”は、のめり込むと無尽蔵に奥が深く、
気づいた時には“終点の無い果てしない道のり”を
一生がかりで歩み続けることになることが多いようです。

このページでは、そうした“一本道”を坦々と歩む
工房の職人さんや 教室の生徒さんの印象的な言葉をご紹介して、
“鎌倉彫を手がける同時代の人々”が、
どのようなことを思い、どのようなことに気を配り、どのような姿勢で制作に励んでいるかを、
ご紹介して行きたいと思います。

 ※ご紹介する“印象深い言葉”には、
   ごく最近に聞いたものから 30数年以上前に耳にしたものまで、
   様々な意味内容のものが含まれており、
   一部のノート・メモ書きを除いて、ほとんどが“講師の記憶”に基くものです。
   記憶の不確かさゆえに、言葉の細かい言い回しについては、
   止むを得ず補足したり割愛したりしてしまっているところがあると思いますが、
   出来るだけ“発語者の真意”が伝わるように記述するつもりでおりますので、
   ご理解のほどよろしくお願い致します。 
 


 【目次】
1.あたりまえのこと  2.人をして語らしむ  3.末代までの・・・  4.横綱だって毎日、四股を踏んで稽古する

5.ちょうどいいのが、一番いい  6.一度しかやらないからな!
  7.やさしく、やさしくね新規更新のマークです。




その1.
  『“あたりまえのこと”を、当たり前にやるのが、一番たいへんなことなんだ。 
  あたりまえのことを、すべて、きちんとやりきっている仕事が、“本物の仕事”だ』


  訓練校で、塗りの手ほどきをして下さった先生の言葉です。
  お茶休みの時に、“面(めん)”について以下のような趣旨のご説明をなさり、
  そのあと、つぶやくように上記の言葉を口にされたと記憶しています。
  「木地調整の良し悪しは、
   “面の具合”(:ここでは、器物や彫刻のカドの部分に漆を乗せるために行う“面調整”の精度)を見ればすぐにわかる……
   ……この工程は、鎌倉彫の塗りを手がけるときの基本中の基本であり、
   カドの部分の塗りの堅牢さを保つためにも、日常的に“あたりまえのこと“として徹底すべき作業である」

  その10年くらい後、TBSラジオで、大沢悠里さんと毒蝮三太夫さんが、
  『人様に“あたりまえのこと”をしてあげる……人様から“あたりまえのこと”をしてもらう……
  一見どちらも“すごく当たり前で普通のこと”のように思えるけれど、
  この二つのやりとりがスムースにできるのは、実は自分が“すごく幸せで恵まれている”という証拠で、
  素直に感謝して良いことなんだと思う』
  『“あたりまえのこと”をあたりまえに実践するのが、今の世の中、実は一番むづかしいんじゃないのか』
  と話し合っているのを聞き、“あ〜、あの先生と同じことを言っているなぁ”と感慨無量でした。

  『当たり前の工程を踏んだ、手抜かりの無い“本物の仕事”が、結局は「人の幸せ」の支えになる』
  ――“ものづくり”の第一信条として、肝に銘じたいと思います。


その2.
  『自分の作品を人様にお見せすると、お世辞かもしれないけど、
  「ここが良い、ここが好きだ」って、どこか誉めてくださるでしょう?
  でも、その誉めて下さるポイントって、何故かほとんどが、
  自分が“手こずって苦労した所”か“面倒臭くてうんざりした所”なんですよ。
  それって、木彫なんか全然したことのない人でも、必ず言い当ててくるんですよね。。。
  不思議ですよね〜、なんででしょうかね〜?』

  教室の生徒さんが、ときどき口にする言葉です。
  “天は語らず、人をして語らしむ”といいますが――、
  “天”は作者の地道な努力の積み重ねを、
  どこかできちんと見守ってくれているのかもしれません。


その3.
  『いい加減に彫ったところって、塗り上がってからあらためて見ると、すごく後悔するんですよね。
  “あ〜、もっとちゃんと彫っておけば良かった〜”って思うんですけど、
  そう思った時はもう「後の祭り」で、ほんと、取り返しがつかないです。
  鎌倉彫って、“飾り物”だと、平気で何百年も持つでしょう? 
  考えてみると、それは恐ろしいことですよね。
  下手でもいいから一所懸命に彫らないと、“末代までの恥さらし”になっちゃいますよね』

  
やはり生徒さんの言葉で、講師も同感です。
  鎌倉彫の場合、“漆を塗ることで何百年も保存できるようになること”が、
  彫り手の“気を引き締める”うえで、重要な役割を果たしていると思います。


その4.
  『横綱だって毎日、四股(しこ)を踏んで稽古するだろ?』

  入門して間もない講師が、
  「初歩的な基本技法(:小刀研ぎや薬研彫り)の反復練習は、面白くない。
  もっと高度な技を早く身につけたい」と初めて本音でボヤいた時に、
  ある先生から頂いた言葉です。
  この言葉には、
  「上達したければ、基本技を大切に稽古せよ」というメッセージと、
  「どんなに上達しても、基本技を大切に稽古せよ」というメッセージが、同時に含まれていると思います。

  その先生は、その後、なにかとお声をかけて下るようなり、
  約二年がかりで、おおよそ以下のような内容のお話をして下さいました。
  (※以下の記述は、先生の断片的な教えを要約して再編集したもので、先生の肉声の写しではありません。
     先生の肉声は、もっと親しみ深くユーモアに満ちた、独特な味わいのあるものでした。


  『“技”というものは無限に続く階段のようなもので、
  ちょっと見には“初級・中級・上級”というふうに“上下・高低”の区別があるように見えるが、
  実質的には、かけがえの無い一段一段が全体を構成しており、
  各々の段に“上級だから凄い”とか“初級だから平凡”とかの区別はない。
  上段・中段・下段のどの一段が欠けても、階段として機能しなくなるように、
  “技”もまた同様である』

  『決して“ごまかし”の効かない「基本技」こそが、
  自分の現在の真実をありのままに映しだす“鏡”である。
  技芸の世界で、名人達人が「基本技」を重んじるのは 
  自己の“等身大の素顔”の健全さを 自己確認するためだ』

  『早く上達したいなら、人が寝ている間に稽古することだ。
  軽く夕食を食べたらさっさと寝て、朝の3時くらいに起きて、登校ぎりぎりまで稽古すれば、
  たいてい1〜2年ではっきりした結果が出る』

  『しかし、“早く上達したい”などという独り善がりな気負いは、稽古の邪魔だ。
  稽古する時は、一切の私的な思いを忘れ去って、刃先の一点に精神を集中せよ。
  今、稽古している“薬研彫り”はその“集中”の訓練なのだ。
  “集中”さえできるようになれば、“上達”はあとから自然に追いかけてくる』

  『“薬研彫り”を会得したら、次は“屈輪(ぐり)彫り”を稽古せよ。
  そうすれば、遠からず“丸彫り(:立体彫刻)”もできるようになる』

  『“酒・夜遊び・賭け事”はほどほどにせよ。
  過食を慎み、野菜(:特にレタス)をたくさん食べ、ぐっすり眠れ。
  栄養ドリンク、強壮剤に手を出すな。足腰を良く使って目の健康を保て。
  良い仕事をしたければ、職人は日々の生活をおろそかにしてはならない。』

  『俺たちは“職人”でいいんだ』

  『いろんなやつがいて、いろんなことを好きなようにやる――それでいいんだ。
  皆がみんな、同じ方向を向いて、同じことをするだけなんて……気味が悪いからな」


   (※上記の教えは、おもにお宅に遊びに伺った時の雑談の合間に、質問に応じる形で頂戴したものです。
     お傍にいると、いつもすがすがしい清涼感を味わえる先生で、
     職人さんや訓練生からの信望も厚く、希有な仁徳の備わった方でした。
     先生ご自身は、終生“一職人”を通されましたが、その作風はきわめて自由闊達で味わい深く、
     力みや飾り気がなく、素直で力強い温もりの漂うものでした。
     また誰に対しても分け隔てなく、平等公平に明るく接せられる方で、
     今更ではありますが、そのご恩の深さを噛みしめずにはいられません。


  最後にご紹介した“職人でいい”という言葉の中には、
  『職人(=日々の地道な制作活動を通じて、鎌倉彫の伝統を次代に継承しようとする無名の仕事人)の心意気を重んぜよ』
  
というほどの含みがあったと思います。

  また“いろんなやつがいろんなことをする――それでいい”という言葉の中には、
  『職人も、作家も、教室の先生も、生徒も、みんなそれぞれ大切な役割を持っていて、
  鎌倉彫の振興・発展にとってかけがえのない存在である』

  というほどのお気持ちがこもっていたと思います。


その5.
  『丁度いいのが、一番いい』

  
訓練生時代に耳にした話ですが――、

  あるとき、二人の職人さんが“塗りの厚さ”について話し合っているうちに、
  意見が食い違って口論になりました。
  一方の職人さんは、
  「彫りのシャープさを損なわないためにも、塗りは薄い方がいい。
   特に下地の塗膜は薄めに塗るほうが“打撃のダメージ”に強いはずだ」
  と主張し、もう一方の職人さんは、
  「塗りは厚い方が福々しくていい。イライラするような薄い塗りは作品を“貧相”にしてしまう。
   また、漆の塗膜は厚い方が“摩耗のダメージ”に強いはずだ」
  と主張して、お互いに一歩も譲りませんでした。

  二人の言い争いが激しくなって、いよいよ手がつけられなくなった時に、
  そばで話を聞いていたもう一人の職人さんがつぶやいたひと言が、上記の言葉です。

  このひと言で、二人の口論の火種は一気に鎮火し、
  以来、この『丁度いいのが、一番いい』は、その仕事場の“標語”になったそうです。


その6.
  『一度しかやらないからな!』

  やはり訓練校時代に、塗りの指導をして下さった先生が、
  生徒の前で“模範実技”を実施する直前におっしゃった言葉です。
  その先生は、生徒がノートをとろうとすると、
  『言葉で覚えるんじゃない。気合で身につけるんだ』と言われて、実技中は“メモ書き”もNGでした。

  “模範実技”を一度しか見れないうえに、メモも取れないとなると、
  生徒は、先生の一言一句、一挙手一投足を脳裏に刻み込もうとして、ほんとうに真剣になります。
  その結果、その先生の“一度しか見れない模範実技”は生徒の“イメージ脳”に焼きついて、
  ひときわ高い指導効果を発揮したように思います。

  『一度きりだぞ、メモもとるなよ』
  というのは、ちょっと聞くと不親切そうですが、
  『“実技の全貌”を心に焼きつけて、全身全霊で会得せよ』
  という、最高に親切な“親心”だったのでしょう。。。

  そういえば――、
  仏教学者の紀野一義さんが、私淑する柴山全慶しばやまぜんけい)老師の法話を、
  一度聞いただけで丸暗記して文字原稿に直した、というお話を聞いたことがあります。

  後日、その原稿を柴山老師にお見せすると、老師はいぶかしそうに、
  「紀野君、君はあの場所にテープレコーダーを持ち込んだのかね?」
  「いいえ、そんなものは持ちこみません・・・あの、私、どこか間違えて書きましたでしょうか?」
  「どこも間違っておらんから訊いておるのだ!」
  老師はそう一喝したあと、急ににこやかになって、
  「紀野君、君は今後、いつ如何なる時でも自由に私に会いに来なさい。
   たとえ参禅接心の最中でも、君には必ず面会するから」
  と言って下さったそうです。
  いわゆる“フリーパス”というものを頂戴したわけですが、
  「参禅接心の最中でもOK」というところが、すごいです。
  一度の法話で、老師の真意を消化吸収しようとした紀野さんの真剣さが、
  老師にとってどれほど悦(よろこ)ばしいものであったかがうかがわれます。

  曹洞宗の澤木興道(さわきこうどう)老師も、
  “提唱(:ていしょう。禅宗の説法)”の要点をメモ書きした学僧たちに、
  『いま言うたことは、みんな嘘じゃ!』
  と言い残して、さっさと帰ってしまったというエピソードがあります。

  もちろん、老師の提唱が“嘘”であったはずがありません。
  これはおそらく、
  「文字に書き残せば、後で忘れても思い出せる」という功利的な心構えでは、
  文字で表せない“提唱の生々しい真実”を体得できないことを、
  ありのままに指摘されたのだと思われます。

  受け取る側の心のピントがずれていると、
  どんな“真実”を投げかけても、みんな“ピンボケの嘘”に変わってしまう――、
  狙いすました勝負球を懸命に投げるピッチャーには、
  それにふさわしいバッター・キャッチャーの“心構え”と“身構え”が必要なのだということでしょう。。。

  こんな話を思い起こすたびに、
  “あの先生は、二人の老師と同じスタンスで教えて下さったんだなぁ”と思われて、
  たいへん感慨深いです。


その7.
  『やさしく、やさしくね』


  訓練校に入学して3作目の課題(:八方刀痕系の桃皿の作品)を彫っていた時に、
  指導して下さった女性の彫師の先生からいただいた言葉です。

  その課題は、花びらの自然な凹凸や柔らかさを、目の細かい八方刀痕で表現するもので、
  入門1年目の講師にとって、ちょっとハードルの高い内容でした。

  教材として配給された木地が“アテッ木”(:逆目[さかめ]を食いやすい木)だったことも手伝って、
  練習彫りを繰り返すうちに頭の中が完全に煮詰まってしまい、
  とうとう『課題作品と対決する』ような“臨戦モード”の心理状態にハマってしまいました。

  そのどうしようもなくなったときに、先生から頂戴したのが上記の言葉でした。

  その後、どうにか作品が仕上がって、皆で先生への感謝会を開いたおりに、

  「先生がおっしゃった“やさしく”というのは、
   どんなことに気を付けて彫れば良いでしょうか?」

  とお聞きしたところ、概略ですが以下のような内容のお答えを頂きました。

  『どんなに彫りにくい木地でも、“敵”にまわしてはいけません。
   寛い心で受け容れて、「仲良く一緒に仕事する気持ち」になることが大切です。
   そういうやさしい気持ちになれば、
   木地の性質や刀(とう)の状態をありのままに理解して、細やかな配慮が払えるようになります。
   例えば、木地の性質を思いやって、刀の刃先のアールや研ぎの角度を調整すれば、
   アテッ木でも逆目を起こしにくくなるでしょう・・・』

  ・・・先生はすべてお見通しでした。
  生徒の一人がアテッ木に短気を起こして“対決姿勢”になったのを見抜いて、
  「やさしい気持ちで素材と道具にアプローチしなさい」とアドバイスして下さったのでした。

  言外に『作品は戦利品ではなく、人とモノとの融和の結晶です』と諭されているような気がして、
  恥ずかしいような、こわいような、“眼からウロコ”の経験でした。

  今でも制作に行きづまった時、
  この『やさしくね』という言葉は、自分の気持ちに潤いと光を与え続けてくれています。


  
◆・・・ところで、この話にはもう少し続きがあります。

  あるとき、その同じ先生が“彫りの模範実技”を見せてくださる機会がありました。

  どのような彫り方をなさるだろうか――やはり優しい感じなのだうろうか――と見ていると、
  予想に反し、想像を絶するスピードのエネルギッシュな刀運び(とうはこび)でした。

  それはまるで、寝坊した子供を学校に送り出す母親のような手ぎわの良さで、
  甲斐甲斐(かいがい)しいというか、捗々(はかばか)しいというか、
  次々に、てきぱきと、急所急所をこなして行く力強い運刀でした。

  いわゆる「やさしい、ソフト、マイルド」とは異なるムードの運刀なので、
  うっかりすると“力ずくの荒々しさ”と見まちがえそうでしたが、
  その彫りの呼吸や実技解説(:先生は模範実技をしながら重要ポイントを解説してくれました)の端々には、
  素材や道具、塗り手、使い手、そして訓練生への、細やかな配慮が感じられました。

  さきほどの例えで言うなら、
  遅刻しそうな子供を学校に送り出す“世話焼き行為”は、
  世話を焼く親の気持ちしだいで、“力づくの荒々しさ”にも“頼もしい手ぎわ良さ”にもなり得るということですが、
  先生のスピーディな運刀が後者の部類に属することは、
  見る見る彫り上がって行く作品の生き生きした出来栄えが実証しているように感じました。

  そのとき、おぼろげながら実感したのは、
  ――“気持ち”の込め方しだいで、行為や動作の効果に大きな違いが表れる――
  ということでした。

  込める“気持ち”の核心として最も大事なのは、いま考えてもやはり、
  対象を理解して大切に扱おうとする“やさしさ=思いやり・配慮”に尽きるような気がします。

  先生の、あの『やさしく、やさしくね』というアドバイスにこめられた深いメッセージを、
  あらためて味わいなおしてみたいと思う今日この頃です。
                                        H28.9.10

                                        ≪つづく≫



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