鎌倉彫道友会のシンボル・リーフ:四葉のクローバー鎌倉彫道友会                    鎌倉彫ノート
  『鎌倉彫の歴史をめぐる随想』

  
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【目次】 その1“経年老成のこころ”
     その2“鎌倉彫と禅・仏教”
その3“鎌倉彫と茶道” 茶の伝来PART1
 
                 :茶の伝来PART2
:鎌倉彫の歴史文献~茶の湯との交点を探る~PART1
:鎌倉彫の歴史概観~茶の湯との交点を探る~PART2(8.17UP)


     はじめに

“鎌倉彫の歴史”というと
――、

 『日本の美術 鎌倉彫 郷家忠臣編 至文堂刊』
 『鎌倉彫 灰野昭郎著 京都書院刊』

――などの文献学的、図像学的な解説書や、大きな工房の親方・先生方が著した書評の定まったテキストがたくさんあり、
今さら何を書けばよいのか・・・いささか途方に暮れてしまいますが、
そんなことをボヤいていても仕方がないので、
ここでは“歴史的”と思われるテーマをランダムに取り上げながら、


『鎌倉彫』にかかわった人々――すなわち、発注者、制作者、愛用者、鑑賞・評価者、保管・継承者、売買者などなど――の時代時代の真意を想像する

という精神史的な視座に立って、とりあえず書けるところまで書いてみたいと思います。

基本的に、
“気まぐれな思いつきの寄せ集め”――“随想録”ですので、
「まぁ、こんな見方もあるのかなぁ~」くらいに、
お気楽に楽しんで頂ければと思います。

また、『歴史』は、勉強不足の講師には荷の重すぎるテーマで、勉強しながらの記述になりますため、
誤記や見当違いなどもあるかもしれません。
明らかな誤りがある場合は、ご面倒ですが、メール・電話・fax等で、ぜひご指摘ください。
どうぞ、よろしくお願いいたします。



 その1 “経年老成”のこころ 
             (2011年12月16日更新)

 
◆中・近世の鎌倉彫の最も一般的な塗り方は、
“黒中漆”の上に“朱漆”を重ね塗りする
“根来(ねごろ)塗り的な”方法です。
ここで“的な”という言い方をしたのは、
鎌倉彫の遺物と根来塗りの遺物とを比較した時、
どちらがどちらにより深い影響を与えているのか、
――あるいは、たいして影響し合うことなく、それぞれが“同じ根っこ”から個別に発生したのか――が、
情けないことですが、講師には今一つよく分からないからです。。。
(※関西では今でも、鎌倉彫を「彫り根来」と呼ぶ古美術商が、相当数いると聞いたことがあります。)

◆『1140~1288年頃にかけて、高野山内部の対立から、“新義真言宗”の僧徒が紀伊の国の根来寺(現和歌山県岩出市)に本拠を移した際に、
寺で使う生活調度品を黒漆と朱漆塗で作ったのが根来塗の起源である』
――というのが、
根来塗りの一般的な起源説のようです。
これはもちろん歴史的な事実で、
きっと間違いないことなのだと思いますが、
ここで着目したいのは、根来寺の僧徒が、
自分たちの新しいお寺のシンボルカラーとして、
“赤と黒”を選んだことです。

◆漆芸史に照らすと、
古代の漆芸の主軸であった蒔絵技法は、奈良時代後半には完成していたと見られ、
その後、平安の初期に弘法大師空海さま(以下、弘法様と書きます)が唐から招来した文物を納める箱
(――『海賦蒔絵袈裟箱』と
    『宝相華迦陵頻伽蒔絵𡑮冊子箱』――
後者はAD919年少し前頃の完成といわれます)
が、制作年代をほぼ確実に推定できる“蒔絵の古典的遺物”として残っています。
しかし、これらは色彩的には“黒と金銀
(=金銀は権力者のステイタス・カラー)”の絢爛たる意匠の貴族的な遺物で、
根来塗り・鎌倉彫にみられるような
『飾り気が無く、素直。やさしげで、実は強い』感じとは、
真逆(まぎゃく)のものです。

◆古くから、東洋においては、
“赤=朱色”は、非常に重要かつ象徴的な色あいで、  
“火炎”や“血液の色”に通じるものがあるためか、
“みなぎる生命力の象徴”と捉えられていたようです。
この“朱色”の鉱物から精製される代表的な重金属が
水銀で、その水銀と硫黄を焼いて作られるのが、
いわゆる“銀朱”と呼ばれる朱色の漆芸顔料です。
古来より、水銀は、
古代寺院の彩色装飾(朱丹)、鍍金の触媒、
不老長寿の霊薬、
はては即身仏(:ミイラ)用の腐食防止剤などなど、
いろいろなシーンでさまざまに重用されてきました。

以前にテレビで知ったことですが、
弘法様とかかわりの深い大きなお寺の地下には、
必ずと言ってよいほど、
“水銀がらみの鉱脈”があるそうで、
一部の研究者の中には、弘法様のご入寂(即身成仏)と“水銀中毒”とを関連づける人もいるようです。
真言密教でかくも水銀が珍重されたのは、
“朱色≒水銀≒生命の根源力”という、
宗教的な連想の信念に由来するものではないか・・・
というのが講師の想像です。
(学術的な裏付けはありません。あくまでも想像です。
でも、インドの“ヨーガ思想”(日本の密教のルーツみたいなもの)でも、やはり“濃赤色・橙色”は“生命力の根源”を表す色として非常に尊重されていますので、「当たらずとも遠からず」くらいの整合性はあると思います。)

◆一方、“黒”は、
“赤”とは真逆の世界――
“生命”が生まれる前、滅した後の世界――
を象徴する色のようです。
(黒い漆は、鉄粉・水酸化鉄・油煙などを混ぜ込んで作ります。)
やはり弘法様のお言葉に――、
『生れ生れ生れ生れて、生の始めに暗く、
 死に死に死に死んで、死の終りに昏(くら)し』
――というずっしりこたえる表現がありますが、
その「暗」「昏」の“黒”であると思われます。
「生命=赤」を“役者”に譬えると、「暗・昏=黒」は“すべての役者の舞台背景”みたいなものかも知れません。

◆以上、ここまでの断想を、
ちょっとまとめてみますと――、

・その昔、弘法様は“朱色≒水銀≒生命の根源力”という宗教的信念をめぐる何らか秘儀を行っておられ、
その行法は高野山をはじめとする真言宗の修行現場で、たいへん神聖視されていた(・・・のではないか?)。
・平安末~鎌倉後期にかけて、「加持身説法」の新義を唱え、真言宗の本拠地である高野山をあとにした“新義真言宗”が、紀伊の根来に自分達のお寺を建立して一宗一派を開いた。
彼らは、鮮やかな“朱色”で漆の色を調合し、塗装する技術を持っていた。
・根来の僧徒たちは、“黒と金”という権力者や上層階級が好みそうな色とは真逆の、
“赤と黒”をシンボルカラーに選んだ。
(――“金色”が使いたくても、手元不如意で使えなかったのだろう――
という意地悪な推測もできるかもしれませんが、
講師としては『金色じゃない。弘法様が重用された朱色だ』という宗教的信念があって、止むに止まれぬ気持ちで“朱色”を使ったのだと考えたいです。)

◆二〇年以上前に、NHKの番組で、
夏目さんという高名な根来塗りの作家の方が、
根来塗りの素晴らしさについて、次のような内容のお話をされていました。

『若い夫婦が、結婚祝いに、根来塗りの座卓をプレゼントされる。
夫婦はその座卓を使って、毎日の食事を共にし、
そのうちに子供も生まれて、にぎやかに団欒しながら食事をするようになる。
しかし、歳月がたつと、やがて子供は成長し、親元を離れて、独立する。
一人目の子が巣立ち、二人目の子もお嫁に行って、とうとう夫婦はもとの二人きりになる。
しかしその時、夫婦の食卓には、子供たちが二、三十年がかりで浮き出させた
根来塗りの「赤地に黒色」の斑(ふ)の模様が残る。
(※根来塗りや鎌倉彫は、使いこむと、上塗りの朱色がすり減って、
下に塗られている中塗りの黒色が斑[=まだら]に浮き出てきます。)

老夫婦は、その斑模様を眺めながら、賑やかだった往時の団欒を回想し、深い充足感にひたる。。。
いつか、巣立った子供たちが里帰りをした時も、
いつもの座卓に
いつもの自分の安らぎの場所が用意されている。
やがてその子の隣にも、
新しく生まれた“孫の斑模様”が少しずつ浮き出てくる。

――このように、
根来塗りは、使い込まれて“完成品”になる。
個人の生活史の証しとして生じた斑模様を、
“キズだ”と思う人は誰もいない。
他産地の漆器なら、“塗り直し”の対象になってしまいそうなキズであっても、
根来塗りでは、それを『大切な人の生きた証し』として、温かい眼差しで鑑賞する。。。』

細かい言い回しは忘れましたが、たいへん感銘深いお話でずっと忘れられず、
今も思い出すたびに、胸が熱くなります。
黒地に金の蒔絵なら、“生活史のキズあと”をつけることなど「もってのほか」で、
ひどい傷がついてしまった場合は、“修繕”“塗り直し”の対象になるのでしょう。
しかし、根来塗り、鎌倉彫は、ちょっと違います。
この二つの工芸品には、
“個人の命”のしるしである“赤”がすりへって、
“個々人の命の土台”を象徴する“黒”の斑模様が出てくることを、
肯定的に受け容れて、安らかに鑑賞しようする“心のゆとり・安らぎ”があるのです。

◆『でも、これを読むと…道具を使い込んで“黒”が出てくるのは、なんだか不吉な感じがして……』
という読者もおられるかも知れません。
(実は、私も、すこしはそんな気もします。)

確かに、そのあたりが、中世人と現代人の大きく違うところなのでしょう。

「徒然草」の七段の冒頭に――、
『あだし野の露 きゆることなく、
鳥部山の煙 立ちさらでのみ住みはつるならいならば、
いかに物のあわれもなからん。
世は さだめなきこそ いみじけれ』
(=露や煙のようにはかない人の命に死ということがなく、いつまでもこの世に生き続けるのが当たり前だったとしたら、“しみじみとした感動”などというものはなくなってしまうだろう。世の中は、無常(:見かけの上で、どんどん変化して、消え去って行くこと)であるからこそ、すばらしいのだ。) 
――という言葉があります。
  

こんな言葉を味わいますと、
中世人は、“変化・消滅するという動かし難い現実”の上に大あぐらをかいて、
微笑をたたえながら“日々の感動”を楽しむ、という
“底の抜けた積極性”“全面肯定の精神”があったように思えてなりません。

◆今回の表題の“経年老成”は、
『年を経て、老いを重ねつつ、
善良に、美しく完成して行く』というほどの意味です。
願わくは、漆器も人も、
そのような姿勢で時を重ねたいと思う今日この頃です。

                       道友会のマスコット猫:ニンの生後1カ月半ころの写真です。
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 その2 “鎌倉彫と禅・仏教”
      
(2012年1月18日更新)


       ・まえおき

鎌倉彫の歴史的な遺物には、仏教(ことに“禅門と浄土門”)の精神が濃密に宿っており、
そうした作品からにじみ出る往時のおおらかな“仏心”を味わうには、
及ばずながらも「仏教を理解しようとする姿勢」が不可欠であろうと思われます。

◆しかし、この場合、ことに「禅」について何がしかを物語るのは、きわめて困難な試みです。
「禅」は“不立文字”を標榜し、いわゆる“思想”として“理解”されることをかたくなに拒みます。
(…これは余談ですが、“不立文字”を旨とする禅宗の文献量は、
何故か他宗派の文献量を著しく圧倒するそうです…)

禅について書き遺された膨大な古典文献を読んでも、その内容はたいへん難解で、
特に“公案”と呼ばれる禅問答にいたっては、
“日常の言語的思考”や“概念的理解の有効性”が、木っ端微塵に打ち砕かれます。

※公案の例・・・
問:「禅の祖師である達磨さんが、
  インドからわざわざ中国においでくださった。
  その真意はどんなものか?」
答:「庭前の柏の樹」

※趙州因僧問、「如何是祖師西来意」。
 州云、「庭前柏樹子」。
 趙州因みに僧問ふ、「如何なるか是れ祖師西来の意」。
 州云く、「庭前の柏樹子」。   ( 『無門関』第37則)

◆また、禅について語るとなると、

「ところで、禅について語ろうとするあなたご自身は、お悟りが啓
(ひら)けているのですか?」

ということになり、事態はいよいよ厄介になります。
ことに臨済宗の禅門では、修行者が上のような公案の禅境と“一枚の境地”に達すると、
“印可”と呼ばれる“達成証明”が発せられますので、
そのような“印可”とは無縁の在野の仏教信者が“禅”についてあれこれ言うのは、
なんとなく畏れ多く、またおこがましいような気もして、
「まぁ、この際、黙っていようか・・・」
ということになりがちです。

◆しかし、往時の仏教界の覚者達が「鎌倉彫」を愛用したことは紛れもない事実です。

つまり、鎌倉彫には、禅・仏教のひたむきな修行者を惹きつけてやまない“何か”があったわけで、
今回は、講師の“役不足”を承知の上で、
その“何か”の内実を、
「無一物」「大愚」「大拙」等々をキーワードに
可能な範囲で読み解いてみようと思います。

事の成り行き上、
鎌倉彫に惚れ込んでくれた“仏教者の心の中”を推し量ることから進めてまいりますので、
少々、長文になるかと思いますが、どうぞお付き合い下さいますようお願い致します。。。


     
・禅門(:証道門)の『悟り』の概要

◆まず、「禅とは何か」、ですが――、
岩波仏教辞典によれば、
「“精神の安定と統一”を意味するサンスクリット語の“ディヤーナ”の俗語“ジァン”を、
中国語に音写した言葉で・・・(中略)・・・しばしば“静慮
(じょうりょ)”と意訳される」
とあり、これによれば
「心の焦点をバランス良く絞り込んで、
静かにおもんばかること」
と説明できそうです。

次に問題となるのは、
「何に焦点絞って、何を(おもんばか)るのか?」
ですが、一文に要約すれば、
『自己の内面に焦点を絞って、自己の正体を・・・』
――ということになるかと思われます。

◆仏教では「三宝印(さんぼういんと申しまして――、
諸行無常(しょぎょうむじょう)
(:諸行〔=一切の現象〕はどんどん変化し、やがて消滅する)
諸法無我(しよほうむが)   
(:諸法〔:一切の存在は“互いに関わり合い支え合うこと”を通じてのみ、この世に存在することができる。したがって「そのような関わり・支えが消滅しても、これだけは残る」というような“絶対・不変の実体(=我)”は無い。)
・涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)
(:上記の真実を全身全霊で実感し、日頃の迷いや妄想から離れるならば、穏やかで静かな悟りの境地(:宗教的な内面の幸福)に安らぐことができる)
――という、3つの教理を重んじます。
三宝印に、「一切皆苦」という教理を加えて、「四宝印」と呼ぶこともあります。
一切皆苦(いっさいかいく) 
(:無常なものを“不変である”と思い込み、実体が無いのに“これが実体だ”としがみつくならば、やがてこの世の一切は“苦しみ”となり、精神的にも肉体的にも安らぐことができなくなる)

◆私たち一般市民の日常の最大の関心事は、まずもって“自分自身”ですが、
上記の三宝印に照らしてみると、その自分自身も“無常”と“無我”の向かい風にさらされており、
講師も身に覚えのあるところですが、風向きひとつで、あっちへふらふら、こっちへふらふら・・・・・・
生きている限り、“時の流れ”と“外部の状況変化”から強い影響を受け続けることを免れません。。

「笑ってる時、怒っている時、泣いている時、楽しんでいる時――どれがほんとの自分か?」
と自問すれば、「状況次第で、どれもみな」としか答えようがありませんが、
そう答えてお茶を濁した自分自身も、時が過ぎればいずれこの世から消え去ってしまうわけで、
じっくり考えれば考えるほど、“人の生の実態”は鼻白む要素が多いようです。

以上の現実を冷静に見据えますならば、
「たしかに、浮世を生きる人間に“絶対不変の自己の実体”などというものは無さそうだ」
と認めざるを得なくなります。

◆もっとも、こんな根の暗い“慮り”は、ただいま幸福の絶頂にある人には無用の長物です。
今現在、世俗的な幸福に恵まれている人が、真摯に禅・冥想を志すことは、きわめて稀なようです。

講師が以前に出会ったヨーガの行者さんは、
「人が禅・瞑想の精神修養に目覚める“きっかけ”のベストフォーは、“別離”“大病”“破産”“投獄”の四つです」
と言いきっていました。
道元禅師も仏道発心の契機について、
「無常を痛感する、正師に出会う、法相(:現象に息づく真理)に気づく」の三つを挙げておられます。

したがって、いわゆる「禅」が重んじるところの“涅槃・悟り”は、「就職した、失業した」「得恋した、失恋した」「昇格した、降格した」「宝くじが当たった、外れた」「株が上がった、下がった」などなどの“外部環境の変動に同調する幸・不幸”のシーソ-ゲームに失望・幻滅した人が、
艱難辛苦の果てに求める“究極かつ完全な内面の幸福”であって、もはや“外部環境の変動”に突き崩され得ないタイプの幸福です。

◆そんなタイプの“幸福”が本当にあるのか?と思われるかもしれませんが、
「禅」はこの“完全な幸福”の実現を請け合います。

さきほどの三宝印・四宝印をみますと、

「無常・無我・皆苦」を痛感する→「日頃の迷妄」が鎮まり、心が清まる→「悟り・涅槃」が開顕する

というプロセスが読み取れますが、この「心が清まって、悟りが啓ける」状況を、
お釈迦様は阿含経典の中で、

『ダンマ(=ダルマ)が顕現する』

と、端的に表現されています。
(※南伝 小部経典 自説経 1、1-3 菩提品

ここに言うところの“ダンマ(=ダルマ)”とは、
 “全世界の存在と事物を根底から支えるもの
=基盤、母体、マトリックス”
という意味ですので、
お釈迦様の言葉を今風の表現に置き換えれば、
「私達の生存を根底から支える大自然・大宇宙の営みの真実の姿が、丸ごと、純粋に、生々しく、顕わになる」
というほどの文言になるかと思います。

草木の芽を吹かせ、花を咲かせ、実を結ばせ、枯れ葉を散らせ、私達の心臓を鼓動させる、
あの“大自然の営み”の素顔が、
“自己探求”の果ての深い禅定の中で、
『“主体と客体の境界線”を払拭するような明瞭さとともに顕わになる』
――と、お釈迦様はおっしゃるのです。。。


「大自然の営み」「大宇宙の真実の姿」
「存在と事物の根本基盤」・・・
と申しますと、21世紀を生きる私達現代人は、
物理学・化学・生物学・天文学等を通じての
『“理性の力”による科学的で学際的なアプロ-チ』を連想します。

事実、「NHKスペシャル」等で紹介される先端科学の研究は、
腰を抜かすほど驚異的な発達を遂げており、
「驚異の小宇宙・人体」「宇宙・未知への大紀行」
などの番組を通観すると、
『人間が“自然・宇宙の働きや営み”に支えられて、
“生かしてもらっている”という事実』
を再確認せずにはいられません。
そして、
「ああ、現代に生まれて良かった。
大昔に生まれていたら、何も知らずに一生を終っていただろう」
と考えます。。。

――しかし、実際は、“そうではない”らしいです。
人間には、『理性力』の他に
『直観力
(:本質を直接、丸ごと見抜く能力)』が具わっていますが、
冥想等の精神的なトレーニングを通じてこの能力に磨きをかけると、
現代人が「理性で理解していること」を、
「全身全霊で、直接、丸ごと洞察すること」も
可能であると考えられます。
この能力は、
「対象を知る」というよりは「対象に成りきる」感じが強く、
特に芸術や宗教の分野では、
“徹底的な研鑽”を求められる場合が多いようです。
古代の宗教や芸術を探求すると、
この能力に著しく長じた「超人」が相当数いたことが推測され、
たいへん興味深いです。。。

ところで、この能力による“洞察結果の全容”は、
「概念化」・「理論化」することがきわめて困難で、
そのため、師匠から弟子に向けて
「言語と論理」でコミュニケートすることができず、
最終的には「弟子自身の修行による会得」
を俟(ま)つよりほか伝承する方法がありません。
『禅』は、そのような『直観力による“成りきり”実践』の、
最も典型的で極端な実例であると考えることができると思います。



以上を、もう少し今風に言葉をこなして要約すれば――、
『“社会の相依相関性の中で流転変化せざるを得ない個々の人間”には、どこをどう突いても“実体”といえそうな本質が見当らないけれども、その“本質的実体に恵まれない個々の人間”の只中で、今も現に刻々と働きつづける「自然・宇宙の営み」は、一人ひとりの人間に“一如”の親密さで寄り添っていて、人が心を鎮めて静かに自己の内面を省察すれば、いつでもその「清浄な営み」をすがすがしく直観することができるし、その温かい眼差しと和合することもできますよ・・・』
――というほどの表現になるかと思います。


この項の最初のところで、
『“禅”とは静慮のことで、静慮とは自己の内面に心の焦点を絞り、“自己の正体”を静かに慮ること』
と申しましたが、このような“静慮”の行き着く果ての「自己の境涯」は――、

『大自然と地続きの自己』
『宇宙規模の“命”の営みを、そっくりそのまま宿している自己』
『“自然・宇宙”という「無限の複合関係」と「尺度の無い時空」に抱きしめられ、貫かれた自己』
『この世の全存在を根底から支える“根本基盤”への没我的な回帰』
『同じく根本基盤からの没我的な新生』
『“一切衆生悉有仏性”“山川草木悉皆成仏(または草木国土悉皆成仏)”(=「自然宇宙は両親、万物は皆兄弟」ということ)の実感と確信』

――という、新しい「自己観」「世界観」「生命観」の再誕そのものであり、
こうした「悟り・気づき」の体験を起点として、
当事者のその後の生きる姿勢がガラリと転換するであろうことは、容易に想像できるかと思います。


       ・浄土門の『信心』の概要

◆以上、『禅門の悟り』について述べましたが、

ここで試みに、
浄土門の阿弥陀仏さまへの信心について、
その教学の説くところを、少しばかり概観しておきたいと思います。


『①一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、つねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。
②二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受したまふうこと、疑いなく慮りなくかの願力に乗じてさだめて往生を得と信ず。』

これは中国浄土教の大成者、善導大師の『観経疏(かんぎょうしょ)』のご文章です。

“罪悪生死”の「生死」の原語は“サンスカーラ(=ぎょう)”ですので、
①の文章は――、
「自分の潜在意識下で刻々とはたらく“罪悪の行”
=罪悪を形成する力。悪い心・言葉・行いを生む『DNA遺伝子』のようなものの罪深さを骨身に沁みて自覚し、ほんとうに絶望した。
こんな自分は、気が遠くなるほどの大昔から経巡ってきた“輪廻転生の輪”から決して離脱できないのだ、と確信した」
――というほどの意味になります。

一方、②の文章は――、
「阿弥陀仏の前身である法蔵菩薩が五劫という長い時間をかけて決心した“四十八の誓願”には、
至心に願う衆生の極楽往生が約束されている。
法蔵菩薩が阿弥陀仏になられたからには、その誓願は成就したのだ。一切の疑念や愚慮を打ち捨ててその願力に身を委ねれば、間違いなく極楽浄土に転生できるのだ、と確信した」
――というほどの意味になります。

真宗の教学では、
①を“機の深信”、②を“法の深信”といい、
この一見矛盾しあう二つの確信が、信者の宗教的自覚において一如となって成立するので、このことを“機法一体”と呼んで尊ぶそうです。


浄土門の信仰心を理解するために、しばしば引用されるのが妙好人の即興詩です。

例えば、妙好人・浅原才一さんの即興詩に、次のようなものがあります。

『わしの機の潮、慙愧(ざんきの潮で、あなた(:阿弥陀仏)お慈悲は歓喜の潮で、
これがひとつのなむあみだぶつ わしとあなたでなむあみだぶつ』


『あさまし、あさまし、よるひるなしの、あさまし、あさまし。

ありがたい、ありがたい、よるひるなしの、ありがたい、ありがたい。

なむあみだぶつ、なむあみだぶつ』


上の詩は――、
「才一という機
(=救われる人間)の慙愧(:罪悪を悔い恥じること)の潮と、阿弥陀仏という法(=救おうとする仏)の慈悲と歓喜の潮とが、一つになって溶け合ったところ(=機法一体)が“南無阿弥陀仏”のお称名そのものです」
――というほどの意味で、
才一さんにおいては、称名念仏そのものが阿弥陀仏
(=慈悲の歓喜)との“即時和合”であったことが窺われます。

下の詩は――、
「昼夜を分かたず、煩悩まみれの才一に、やはり昼夜を分かたず、慈悲心まみれの阿弥陀仏の救いの手が差し向けられる。しかも、その発煩悩と施救済とは“なむあみだぶつ”の称名において同時生起する」
――というほどの意味で、
“あさましい人間が、理屈抜きで、ありがたい仏と和合する”
“相反し相容れないはずの両者が称名において即時融合し、即時救済が実現する”
という点に、専念称名による煩悩浄化のありがたさ、不思議さ、頼もしさが謳いこまれています。
(鈴木大拙全集第十巻「妙好人」―南無阿弥陀仏の本体― 要旨)

ここで、阿弥陀仏さまは「自然宇宙の生命の光明」そのものですので、
浄土門の信者が称名念仏において阿弥陀様と即時融合する境地は、つまるところ「禅門の悟り」と選ぶところがありません。

登山ルートは違っても、辿りつく頂上は同じ「内面の幸福」で、それを「悟り」「見性」と呼ぶか、「信心」「救済」と呼ぶかは、ここでは不問に付すことにしたいと思います。。。

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     ・修行

◆もっとも、このような「内面の幸福」にたどり着くには、その前提として、
「無常・無我・皆苦」を痛感する→「日頃の迷妄」が鎮まる
というプロセスが不可欠ですので、
その意味では、かなりの精神的修行(=心の深層を洗い清めること)を必要とします。

具体的には、日々の生活で“戒”を守り、作法に則って姿勢を正して坐り、
数息観(すそくかん)や専念称名で呼吸と心を整え、
五感の働きや意思の志向性を統御して心の焦点を内向きに絞り、
誰もが生まれながらに有っている“智慧”と“慈愛”のレンズを清澄ならしめ、
明瞭機敏な内面観照の心理作業を、最高度の水準で持続します。

この際、“感情の動き”から生じる様々な“邪念妄想”が起滅しますが、
「取り合わずに受け流す基本姿勢」を保ちます。

邪念妄想には「ガスの元栓、大丈夫だったかな・・・」という程度のものから、
「魔境」「禅病」と呼ぶべき深刻なレベルのものまで、さまざまな種類のものがありますが、
いずれも深層意識に根深く巣食う「根本無明(むみょう)という煩悩」の魔物に由来するのもので、
そうそう簡単に断ち切れるものではないようです。

禅境や信心の深まりに比例して、襲来する「魔」の軍団も強大になる傾向がありますが、
中でもとくに「五欲」とばれる欲望の軍団の侵攻は、執拗かつ奸知に長ける特徴を持ちます。
「五欲」は、お釈迦さまがご入滅の直前に、菩薩(:人様の役に立ちたいという意志が堅固な修行者)のために言い残した
「佛遺教経(ぶつゆいきょうぎょう)」というお経の中で、
「“知足(:健全な満足感)”を妨げる欲望」としてお取り上げになっているもので、次の五つを指します。
・財欲 金銭と物質をかき集めたい、という欲。
・色欲 身心両面で誰かと触れ合いたい、という欲。
・食欲 何でも自分の中に取り込んで
     “自己の一部”にしたい、という欲。
・名誉欲 地位・名声・人気・人望等を得て、
      自負心を満足させたい、という欲。
・睡眠欲 なるべくなら怠けていたい、という欲。

五欲は、普通に社会生活をする人なら誰にでもあるもので、これらを全否定してしまうと、誰とも交際できず社会人として通用しにくくなるかもしれませんが、
“禅”“念仏”の修行において、
「外的環境の変化に過度に同調しようとする心の働き」にブレーキを掛けねばならぬ状況では、
よろしく制御して抑止すべき欲望である模様です。。。


【参考:臨済宗と曹洞宗――それぞれの修行の仕方】

臨済宗の禅門では、参禅者の参究課題である「公案」に全身全霊を傾注し、直観力の焦点を絞り込んで、公案の禅境と「不二一如の境地」に達することを目指します。
そして、その境地から一転機を得て自然に湧き出す『見解(けんげ:公案に対する自己の見方)』を、「独参どくさん」「入室にっしつ」の際に師に呈し、師との一対一の問答で点検・商量してもらいます。
弟子の境地が師の境涯の届きますと、師はその公案の透過(とうか)を許し、また次の公案を、その師の室内伝統の公案体系に則って、弟子に課します。
まだ届かない場合は、師は黙って手元の鈴を振りますので、弟子は直ぐに問答を止め、引き下がって再工夫せねばなりません。。。

一方、曹洞宗の禅門では――、

『其(そ)れ参禅は静室(じょうしつ)宜しく、
飲食(おんじき)節あり。
諸縁を放捨し、
万事を休息すべし。
善悪を思はず、
是非を管ずること莫(なか)れ。
心意識の運転を停(や)め、
念想観の測量(しきりょう)を止(とど)むべし。
作仏(さぶつ)を図ること莫れ。
(あに)坐臥(ざが)に拘(かか)わらんや。
――中略――
身相既に調へて、欠気(かんき)一息し、
左右に揺振(ようしん)すべし。
兀兀(ごつごつ)と坐定(ざじょう)して
(こ)の不思量底(ふしりょうてい)を思量せよ。
不思量底、如何(いかん)が思量せん。
非思量(ひしりょう)
此れ乃(すなわ)ち坐禅の要術なり。』
             (道元禅師の『普勧坐禅儀』より抜粋)

意訳:
坐禅をするのは静かな部屋が適当であり、
飲食の節度を守るべきである。
もろもろのしがらみを捨て去り、
一切の俗事を休息せよ。
善悪を思ってはならない。
“是か非か”を分別して対処しようとしてもならない。
潜在意識・自我意識・感情・理性・意思・五感の心理が好き勝手に動きまわるのを停止させよ。
記憶・想念・観察思惟に基いてあれこれと推測・推量するのを止めよ。
意図的に“仏”に成ることを狙ってはならない。
(仏に成ることは)これまで無自覚に反復して来た“習癖”とは無関係である。
――中略――
姿勢が調ったら、口から吸って吐く深呼吸を一回して、
背骨を軸に上半身をゆっくりと左右に揺り動かし、身体の正中線を探り当てよ。
(探り当てたら)山のようにどっしりと静かに坐り、
『今ここで全く何も思い量(はか)らないこと(=箇の不思量底)』を思い量れ。
「何も思い量らないこと」を、どうやって思い量るのか。
『“個我の思い量り”が消え失せて、
“大自然の「無心」の思い量り”と一如になる境地』
(=非思量)が啓(ひら)ければ良い。
これが坐禅の要(かなめ)となる身心の調整法である。

――と、説かれます。

以上を概観しますと――、

・臨済門は、「公案」という思念集中の“的(まと)”を据え、「坐禅修行」という“手段”を極めながら、「見性悟道」という“目的”を達成しようとする。。。
・一方、曹洞門は、坐禅時に特定の“的”を据えず、また「修行と悟り」を“手段と目的”に区分けせず、“①修証一等(しゅしょういっとう)”“②本証妙修(ほんしょうみょうしゅ)の立場を取る。。。
①「只管打坐・非思量の修行」イコール「大自然から常時発行せられる究極の出自証明(=悟り)ということ。
②「本証:誰にも備わっている生得的な悟りの働き」・「妙修:“本証”に支えられる仏道修行の実践」は、“表裏一体・相即不離の関係”にあるということ。

――という特色が明確に読み取られ、この点では、両門の修行姿勢に隔意の違いを感じ取る方もおられるかもしれません。

しかし、臨済門の修行者が、直観力の焦点を絞り込んで公案と一如の三昧境に達するには、
「心意識の運転」や「念想観の測量」を停止して「作仏を図らぬ境地」に安坐する必要がありそうですし、
(・・・つまり、修行(:手段・原因)と悟り(:目的・結果)の仕切り(:個我の思量)を取り払って、――仏になろうとも何とも思わずに――、刻々の打坐観照の実践が、そのまま刻々の三昧境の実現となる工夫をする必要がありそうですし・・・)、
また、只管打坐を重んじる曹洞門も、
「個我の思量の消失」と「大自然の“非思量”の開顕」という究極の『的』(=“非思量”という無目的の目的)を掲げていますので、
その意味では、射抜くべき“悟りの的”を全く有たずに、ただ枯れ木のように“只管打坐”の修行をするわけではない模様です。

『正法眼蔵』『永平広録』を拝読しますと、道元禅師が、「工夫弁道の道標」を確認点検する方途として、「公案への真摯な参究」を尊重し励行せられていたことが窺えますし、
また、臨済門の独参・入室で点検商量されるポイントが、
「公案と不二一如の三昧境→一転機→個我レベルの思量の消失&大自然レベルの非思量(:仏心)の顕現」
に要約されるであろうことも、ほぼ肯(うべな)われるのでは、と考えます。

こうしてみますと、両門の禅に参じる基本姿勢は、
互いに互いを包蔵し合う「入れ子細工」のような様相を呈しているように思われます。

新月は満月を孕(はら)みつつ“月そのもの”であり、満月も新月を孕みつつ“月そのもの”ですから、
看話禅と黙照禅の相違もまた、
“心の満ち欠け”に由来する“見かけ上の違い”の現れなのかもしれません。

人それぞれの“心の位相”の移り変わりを、その人なりに精いっぱいに生き抜いて、
“心そのもの”に親しみ、馴染んで行くことが、
参禅修行の実際上の『要術』なのだろう・・・と愚考します。

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       ・無一物

◆こんな禅問答があります。

問「一物(いちもつ)不将来(ふしょうらい)の時、
  如何(いかん)
答「放下著(ほうげじゃく)
問「既に是れ一物不将来、
  箇(こ)の什麼(なに)をか放下せん」
答「放不下ならば担取(たんしゅ)し去れ」

問「私はとうとう“無一物”の境地に達しました。
  さてこの先、どのように修行しましょうか」
答「荷物を下ろしなさい」
問「すでに無一物の境地に達した私に、
  このうえどんな荷を下ろせと言うのですか?」
答「荷を下ろせないなら、
  そのまま背負って帰りなさい」

※問者は厳陽(げんよう)尊者、答者は趙州(じょうしゅう)和尚で、
『五家正宗賛』の趙州和尚の章にある問答です。
“放不下”には、「物の置き場がない」「スペースの余裕が無くて、満杯の状態」という含みもあるそうです。



この問答を笑う人は多いですが、講師にはとても笑えません。この問者は、艱難辛苦の禅修行の末に「“無一物”の境地に達した」と宣言していますが、それは実際、血のにじむような精進をしたのだろうと思うのです。

“無一物”は、
「生まれる前と同等の、余計なものを一切なげうった自由自在な境地」というほどの意味でしょうか。。。

もう少し深読みすれば――、

“無”は、仏教では“空”“不”“非”などと同じ意味で、言語化し得ない「宇宙規模の真理の営み」、
“一”は、相対性(:好き・嫌い、奇麗・汚いなどの二極の対立状況)を跳出した「心の絶対的な自由」、
“物”は、「万象同帰」「自己本来の仏性(ぶっしょう」を全身全霊で会得した「唯我独尊の自己」・・・

――つまり、
『“大自然の真理の営み”と通い合う“心の絶対的な自由自在さ”が顕わになった。
それが今ここに居る私そのものである。さあ、どうだ!』
――というのが、問者の第一声「一物不将来の時、如何」
という言葉の真意であろうと思われます。

これは、当然ながら上述の「五欲」をも滅し切った境地で、仏教的には究極の“涅槃寂静”の境地が啓けて、“成道した”というに等しい宣言です。

しかし、答者はこれを許しません。
「荷を下ろしなさい」の一喝は――、
『それはおめでとう。
しかし、そういう素晴らしい境地に対する自負と執着の念はまだ背負い続けているようだから、
この際、それも手放してしまいなさい』
――というほどの意味でしょう。
禅者の問答は無駄口をいっさい省きますので、油断ができません。
案の定、問者は答者の陥穽にはまります。
『この俺に、このうえ何を手放せと言うのか?』という突っかかるような問い返しには、
問者の“悟りに対する完璧な自負”が漲(みなぎ)っているだけに、格別の哀れさが漂います。
『鈍くさい奴だな、それじゃ仕方が無い。自負心も執着心も飽きるまでずっと背負い続けるがいい』
これが答者のダメ押しです。

問者はきっと、氷水をぶっかけられた以上のショックを受けたことでしょう。
精進の末に、せっかく啓けた最高の境地を、さらに一歩進んで、すべて擲(なげう)つ・・・、
それがどれほど難儀なことか。。。想像するに余りあるものがあります。
※上記の他に「無一物」には、蘇軾の詩にある『無一物中無尽蔵。花有り月有り楼台有り』や 六祖慧能能禅師の偈にある『本来無一物。何れの処にか塵埃を惹かん』などの用例があります。
   

      ・大愚、大拙

◆このように、禅においては、上記の問者にみるような「悟り臭さ」を一蹴します。
“悟りの臭み”を拭い去ろうとする例は他にも沢山あって、
例えば――、

十牛図の最終の第十図は、“入鄽垂手(にってんすいしゅ)”と呼ばれ、悟りの啓けた修行者が、無防備に手を垂れて市中の雑踏に入り、日常的な生活の実践を通じて、一般民衆に仏の道を示すところで終わっています。、
民衆の眼線の高さに完全同化して、民衆とともに力を尽くす境地です。

このHPの「鎌倉彫ノート」のプロローグ「⑧基本姿勢」の項でご紹介した中島敦の「名人伝」でも、主人公の弓の名人は最終的に“弓そのもの”を忘却し、弓を指さして「これは何か?」と質問します。
(「名人伝」の主人公は、仏教僧ではありませんが、この作品には禅仏教と道教の影響が色濃く漂っています。)

法華経の命懸けの行者であった宮沢賢治も、その最晩年の心境は、
「・・・みんなにデクノボーとよばれ、ほめられもせず、くにもされず、そういうものに、わたしはなりたい」
でした。
(※賢治は17歳の時、曹洞宗の尾崎文英師に出遭い、以後しばしば参禅しています。
その悟境の一端は、「銀河鉄道の夜」の“黒い大きな帽子をかぶった、青白い顔のやせた大人”とのやりとりの中で、かなり生々しく描かれています。この段は、賢治の「生きる姿勢」の核心部分を吐露した文言として、きわめて味わい深い内容であると思います。)

「大愚良寛」、「愚禿釈親鸞」、「仙厓和尚」、
そして「妙好人(みょうこうにん)」と呼ばれる市井の篤信者については、いまさら申すまでもないでしょう。

以上のような究極の境地を極めた修行者たちの「悟後の修行」は、山の頂上を極めた人がやがて必ず里に下山するのに例えられ、(・・・このあたりは「道教」の思想の影響が強く感じられますが)、そこに共通する修行態度は、つづめて言えば「愚」と「拙」であろうかと思います。

愚と拙は、民衆に媚びて教化を容易にするための計画的な“愚か者・下手くそのフリ”ではなく、
見性悟道・機法一体の感興から、天然自然に滲み出る「覚者のおおらかな歓び」のあるがままの表れです。

そして、この余計な力みの抜け切った「覚者のおおらかな素顔」が、往時の仏門で愛用された「鎌倉彫の歴史的な遺物の面影」と密に重なり合ってくるのです。

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    ・鎌倉彫の遺物に宿る
     「大愚・大拙」の温もり


◆悟りの臭気を振り払って、『“自負や執着”の無一物』を極限まで押し進めますと、覚者は“利口ぶる”ことや“上手ぶる”ことがまったく不能となり、とうとう「愚」「拙」の自然体に落ち着きます。

この愚拙は、愛すべき愚拙、仰ぐべき愚拙、敬わずにはおられない愚拙で、多少とも、なにがしかの道を志す人であれば、「ああ、これ、これ」とすぐに直感できる、おおらかでぬくもりのある愚拙です。

例えば仙厓和尚の竜の絵には、
「これは何だ?と訊かれたので、“竜だ”と答えた。訊ねた人は大笑い、私も一緒に大咲(わら)い」
という意味の賛(:さん。作品を称える詩文)が書かれたものがありますが、
実際そこに描かれた“竜”は、ミミズがタツノオトシゴになりそこねたような感じで、
お世辞にも“上手”とは言えないものです。
観賞者によっては、眉をひそめて訝ったり、
「一体これはなんだろう? でも訊くのは悪いかな?」
と気を使ったりしそうな代物ですが、
賛の問者は躊躇なく「なんだ、これ?」と問い、
“竜”と聞いて大笑いしています。
笑われた仙厓和尚も大笑いして、
両者の心は、一匹のミミズ竜を介して“一味”となり、
二人の禅境がぴたりと重なり合ったことが窺えます。
問者もまた、
悟り臭さの抜け落ちた好々爺だったのでしょう。

また、夏目漱石は良寛さんの書を拝して、
『これこそ神品である』とあると絶賛しましたが、
それは、「禅坊主になるくらいなら豆蔵になる」
と言い放って、当時の禅門を中退した漱石に、
良寛さんの極上の“愚拙”を味わうだけの
心の素養があったからだと思われます。

要するに、『愚拙』の技芸の味わいは、その作品と鑑賞者とが触れ合った時場において “一味の交わり”を為し得たところで、はじめて順当に味わわれるわけで、
そういう意味では、目前の客人の只今の禅境をまさぐるうえで、“最良の試金石”となり得たのでは・・・と思われます。
逆に考えれば、往時であっても、
「愚拙の技芸の神々しい体温」を正当に感得できる禅匠は、そうそうざらには居なかったのでは・・・とも考えられます。

◆講師の大好きな鎌倉彫の古典作品の一つに、来迎寺の「鳥文彫香合」があります。
(※「日本の美術 No.70 鎌倉彫 至文堂刊」 の第6図。)
この作品には、上述の“仙厓和尚の竜”と同じく、
「これは鳳凰ですか? それとも雄鶏ですか?」
と聞きたくなるような“鳥”が甲板いっぱいに彫り出されています。
おそらくは、多くの客人がこの鳥を見て、困惑したり、吹き出したりしたことでしょう。

しかし、よく見ると、地透きの深さは均一で、細かい“薬研彫り”や丸刀の“しゃくり”の運刀技術も安定しており、
一定の稽古を積んだ“手の決まった”作者による大真面目な彫技によるものであることが知られます。
特に、上向き加減の求道者的な眼差しの確かさや、きりっと結んだ口元には
「鳳凰と呼ばれようが、雄鶏と呼ばれようが、俺が俺であることに変わりないわい!」
とでも言いたげな凛とした“愚直の風格”があり、誠に結構な「大愚大拙」の味わいを醸し出しています。

◆南禅寺の「牡丹文彫香合」は、
(※「日本の美術 鎌倉彫」至文堂刊 の表紙写真
・・・但し、この写真は本来の“天地”が“左右”に横載されています)

精確で明快な彫技を縦横に駆使し尽くした、意匠的にも文句なしの傑作ですが、
これも良く見ると「“大拙”の痕跡かな?」
とおもわれる箇所が二つほど散見されます。

一つは中央の牡丹の“よだれ掛け状の花弁”の左上に斜めに入った「薬研」で、
もう一つは、右下の牡丹の花芯部の「欠落」です。

「薬研」のほうは、いわゆる“花弁脈”ではなく、
花弁の肉の柔らかい凹凸稜線を「直線的な片薬研」で表現したもので、
そうした作者の意図は汲み取れますが、必ずしも功を奏しているとは言いにくいところがあります。
事実、道友会の教室では幾人かの生徒さんから、
「この斜めの薬研はちょっと唐突な感じがしますが・・・花弁脈ではなさそうだし、一体何ですか?」
と問われたことがあり、講師も訓練生の頃、この線の解釈について同輩と議論した覚えがあります。
この片薬研の問題点は――、

①花弁肉のうねりの凹凸を表現する「稜線」であるならば、もう少しそれらしい「片薬研」を採用してもよいのではないか。
また稜線であるならば、その線を境に、両側の花弁脈の流れの角度にいくらかの変化が生じるはずなのに、
その角度変化が必ずしも表現されきっていない。
②ほんとうは最初は普通に花弁脈だけを入れるつもりだったが、問題の個所で一本だけ間隔的に収まりの悪い花弁脈が生じてしまい、それを誤魔化すために、“斜めの稜線”を「片薬研」で入れてみたのではないか?
(・・・問題のよだれ掛けの部分は、
他のパーツに比べて脈の本数〔=単位面積当たりの脈の密度〕がやや混み合っていて、
作者の“部分的なこだわり”が感じられるため、かえって様々な想像を生みやすい印象があります・・・)
――という“批判”と“憶測”を招いてしまうところにありますが、
作者は言い訳がましい取り繕いを一切せずに(「こくそ」等で直すこともできたでしょうに・・・)、この『天下御免の向う傷』を丸投げに放置しています。
(でも、この“斜めの薬研”がなくなると、この香合の魅力は間違いなく半減します。)

作品右下(:仏事の際に仏様側から見た下手?)の牡丹の“花芯部分の欠落”も含め、
この“向う傷”には、“拙”をおおらかに愛好する風合いがあり、期せずして、鑑賞者の心の力みを抜く効果を生んでいるように思います。

上記②の憶測が真実だったとしたら、誤魔化しを認めた作者は、それを言い当てた客人と一緒に、呵々大笑したことでしょう。。。


この他にも、「愚拙の芳香」が漂う鎌倉彫の遺物はたくさんあります。
興味の湧いた方は、上にご紹介した
「日本の美術No.70鎌倉彫 郷家忠臣編至文堂刊」
をご覧になって、是非ご自身の眼でお確かめ下さい。
(『日本の古本屋』サイトで、1000円以下で入手できます。)
講師はとくに「袖香合」がお気に入りで、
中でも69図の「鯰」や74図の「桐」が好きです。

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『往時の鎌倉彫は、中国の堆朱・堆黒の代替品・模倣品として制作された。この傾向は金蓮寺・知恩寺・円覚寺の屈輪(ぐり)文様の大香合にも読み取れる』
(上述の「日本の美術 No.70 鎌倉彫」の p.23~24要旨)
――というのが、専門学者・研究者の見識であるようです。

これはおそらくその通りで、間違いのない学術的な結論なのでしょうが、
講師は以前から“代替品”“模倣品”という表現には、若干の違和感を抱いています。

『本当は天然ダイヤが欲しいけど、手が届かないから、人造ダイヤで間に合わせている』
という気持ちが働いている時、人造ダイヤはまさに天然ダイヤの“代替品”“模倣品”で、
これを英語で表現すれば[substitute][imitation](本物そっくりならreplica、インチキ臭ければfake
ということになります。
そこには――、
『“本物”の“代わり”として造られ、使われる“似せ物”』
『劣化して“本物”らしくなくなると、本物らしく修繕されるか廃棄交換される“紛(まが)い物”』
――という意味合いが漂います。

・・・となると、問題は、「金蓮寺・知恩寺・円覚寺の屈輪文様の大香合を造った人・用いた人」が、
『ほんとは中国の堆朱・堆黒が欲しいけど、手が届かないから、彫木彩漆の鎌倉彫で間に合わせている』
という気持ちを持っていたか?
ということになりますが・・・、
講師は「それは、持っていなかったろう」と思うのです。
時の権力者との政治的なしがらみをシャットアウトできる
“密室状況”で、往時の仏門の覚者・高僧に
「ここに中国の堆漆と日本の鎌倉彫があります。どちらか一つ、ご所望の品をお持ちください」と言ったら、
彼らは何の躊躇もなく『鎌倉彫』を選んでくれたろうと思うのです。

以下にその理由を述べます。

当時、中国からもたらされた堆朱・堆黒の舶来品は――、
器体の大半が“漆だけ”で固められた永遠不滅の器物で、耐用年数がほぼ無限
・意匠密度が濃く、彫技は巧緻・精確で、制作時間も膨大
・制作費用が莫大で、所持すれば宗教的功徳やステイタス・シンボル度も破格

――という触れ込みもあって、時の権門勢家に重んじられたと考えられますが、
往時の日本の仏門(臨済宗・浄土宗・時宗など)の高僧たちが、そのような彫漆作品の「不変・不滅性、高級ブランド性」に本気で憧れたとは考えにくいと思います
(権門勢家との付き合い上、所蔵品を大切に保管・利用した場合はあると思いますが・・・)。

     【上記の論拠】
①鎌倉彫の大香合の裏書には「使用者」「使用所」を記銘したものが多いです。

(※最古といわれる「金蓮寺屈輪彫香合」で1481年の記銘ですが、記銘の“常住”という表現――二~三通りの解釈が可能かと思います――を深読みすると、完成後ある程度使い込んでからの記銘である可能性も全否定できないと思います。
また、「知恩寺屈輪彫香合」の“身の底”に記された「年号日付」と「洞門庵暉傳置之」の銘文を、
「洞門庵暉傳による“奉納の時期”、すなわち、この香合の“制作された時期”である」
と解釈する向きもあるようですが、
“置く”という言葉使いは微妙で、
「事情があって預ける」「形見として残す」などの含みもあり、記銘が身の底にあったこと――何らかの内容物を入れて奉納した場合、奉納時には記銘を確認しにくいこと――を考え合わせると、より慎重な調査が必要だと思われます。
ことによると、奉納された以前に暉傳さんのご一門が所持し、ある程度使用していた可能性も否めないのでは、と思うのですが・・・。
新品に記銘されたか、使用品に記銘されたかは、近頃の光学検査等で科学的に判定できるのでしょうか・・・。
私的にはたいへん興味深い問題です。。。)

――ともあれ、この「使用者」「使用所」の記銘は、
鎌倉彫が“使い込まれて美的に完成する”という当時の認識を裏付けるものではないでしょうか。
つまり、使用者やその道場が、鎌倉彫の「経年老成」を促す主因・副因として、重要な役割と責任を担っていることを自覚していたことの証しであると思うのですが・・・。
(・・・大香合が劣悪な経年変化をきたした場合、
   使用者と道場が仏者としての“品位”を疑われる、
   という意味です。)

②このような眼で鎌倉彫の遺物を見ると、
往時の仏者が、時の流れの中で変化し、成長し、老成し、やがて消え去ってゆく「彫木彩漆」を、尊び敬って、大切に愛用したことが窺えます。
彼らの基本精神の特質は、このHPページの「その1:経年老成のこころ」でも述べたように、「“無常の掟”の絶対肯定」「無常を友とし、真剣かつ積極的に無常と遊び戯れること」にあり、これは、堆朱・堆黒の“不変・不滅”というセールスポイントとは、本質的に噛み合わない“真逆のもの”だと思います。
(・・・往時の仏者が堆漆器の「不変性・不滅性」に本気で憧れたなら、経年使用による鎌倉彫の老成変化(=塗膜の摩耗・キズ入り・一部損壊)を「劣化」と見なして、“修繕して塗り直す”か、“造り直す”かしていたでしょう。しかし、そのような再加工を加えられた鎌倉彫の歴史的遺物は、(少なくも仏門においては)まず見当たらないと思います。さきに挙げた来迎寺の「鳥文彫香合」などは、側面部の欠損部分を無地の木板で“ツギを当てるように”補っているだけで、「老成部分」に余計な再加工をいっさい加えない修繕姿勢を貫いています。)

③また往時の仏門の覚者は、宗派を問わず、これまで述べたような、「無一物」「大愚」「大拙」の精神を重んじ、敬愛しました。
これらの精神は、堆朱・堆黒の舶来品が有つ
“意匠密度の濃さ”、“彫技の巧緻さ・精確さ”、“制作時間の膨大さ”、“制作費用の莫大さ”、“宗教的功徳やステイタス・シンボル度の破格さ”などなどのセールスポイントとは噛み合わず、両者はほとんど“水と油”の関係にあると思われます。。。

我が国の仏門の覚者は、是非とも必要だと判断して本気になれば、一切を擲って命懸けで海を渡り、諸国を巡り、私財をはたいて仏教興隆のための勧進に力を尽くす気概をもった人達でした。
必要とあらば、漆を三百回塗り重ねて彫刻を施す程度の「財と労の捻出」は、全く厭わなかったでしょう。
また当時の日本の工人に、その技術的素地が無かったとも思えません。
直観ですが、平等院や中尊寺の彫刻・漆芸の技術を援用工夫すれば、堆漆を合理的に手際よく制作すること自体は、おそらく可能であったろうと思います。
どうしても分からない工程があれば、万難を排して技術導入に努めたでしょう。

ただし鎌倉・室町の波乱を生きた彼らは、人の一生の短さ・尊さも熟知しており、本道から外れた脇道に、やすやすとは迷い込まない気概も併せ持ちました。
ひた歩む道は、没後間もない宗祖の指し示した『衆生済度』の一本道で、これ以上ないほど“生きる狙い”がはっきりしていただろうと思います。
そう考えると、往時の我が国の仏門に堆漆の制作・常用が根づかなかったのは、ただ単に「不要なものは要らない」というだけの理由に尽きるような気もします。
鎌倉仏教の目指す『衆生済度』は――、
『“争乱に明け暮れる、定めなき無常の人生を、如何に生き、如何に死ぬか?”
――という深刻な問いに答える“仏の智慧と慈悲”を、一般の民衆に普及すること』であって、
それ以前の仏教に特徴的な、
『限られたエ―リトが占有する“権力と財力のシンボル”“不変不滅のありがたさの象徴”を政教一丸となって造成し、みんなで崇め拝むこと』ではなかったろうと考えます。
脳裏に思い描いても、
中世の仏門の覚者が、舶来の堆漆ブランドを特別に可愛がる風情は、あまり絵になりません。
素朴で飾り気のない袖香合のような愛玩漆器の、経年使用による老成変化を慈しむ表情なら、自然に想像できますが・・・。

以上の理由から、
『往時の仏門の覚者達は、
中国の堆朱・堆黒に見られる「伝統的に重んぜられて来たデザイン様式(=ここでは屈輪)」を、
“継承踏襲”
(←“模倣”ではなく)しつつも、
自分たちの基本精神と生きる姿勢にかなった、日本流の仏具のあり方を「創造」した』
――と、講師は考えたいです。

米と麹で生地を発酵させる「酒種あんぱん」に「桜の塩漬け」を添えた“木村屋あんぱん”が、もはや西洋パンの“代替”“模倣”“模造”とは言えないように、
彫木彩漆を基本工程として、経年使用による器物の老成を愛でる鎌倉彫もまた、もはや堆朱・堆黒のイミテーションとは言えないと思うのです。

少しこだわりすぎた考え方でしょうか・・・?
でも、海外に向けて鎌倉彫の歴史を説明する時に、サブスティチュート、イミテーション等の言葉を使うのは、
「なんだかな~」と思うのです。。。

       ・まとめ

◆以上で、今回の『鎌倉彫と禅・仏教』を終わりたいと思いますが、最近の講師の実感として、
『大愚』『大拙』は、
たいへんありがたい精神であると痛感しています。
大愚・大拙を愛する心は、つまるところ、
「ありのままの自然体の自己」を愛する心に
繋がるように思えるからです。

『賢い人が巧みに造った作品』を重んじて追求し続けるのは、たいへん骨が折れることです。
もちろんそのような方向性も、技芸の発展には必要で、欠かせない姿勢でしょうが、
それとは真逆の『大愚・大拙』の方向性も、人間の幸福にとって、かけがえのない姿勢だと思います。

道友会員の夢は、
今から何百年か経った未来の世界で、
自分達が造った作品が大切に愛用・保管されていて、
その愛用・保管している未来人から、
『この作品は技術は下手だけれども・・・
・・・鋭い知性も感じられないけれども(ごめんなさい!笑)
とにかく愚直に一所懸命彫ってあって、
何故だか“ないがしろ”にできないんだよね・・・』
と言ってもらえる作品を造ることです。

『賢・巧』のみならず、
『愚・拙』も世に重んぜられる時節の到来することを、
切に祈念します。

最後まで読んで下さった貴方さまへ、
長文にお付き合いくださり、
ほんとうにありがとうございました。 m(__)m

                       道友会のマスコット猫:ニンの至福の表情です。
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その3 “鎌倉彫と茶道” 

     (2012年1月23日UP~順次更新中)


       
・はじめに

◆前回は、『鎌倉彫と禅・仏教』というタイトルで、
現時点での講師の思うところをありのままに述べさせて頂きましたが、いかがでしたでしょうか。

自分なりに関係資料には目を通しているつもりですが、浅学な一職人の思い込み・思い違いで、
ご専門の方々の眼識を通して見れば、時代遅れ・見当はずれな記述も、ままあろうかと思います。
また、講師自身、あと10年もすれば、
ここに書いた内容とは違う角度の「ものの見方」をするようになるかも知れず、そういう意味では、このページの記述内容は“固定的”ではなく、“流動的”で“可変的”です。
このページの最初のところで――、

『基本的に、気まぐれな思いつきの寄せ集め――
“随想録”ですので、
「まぁ、こんな見方もあるかなぁ~」くらいに、
お気楽に楽しんで頂ければと思います。』

――と述べましたが、この『基本姿勢』は今後も同じで、変わることはありません。

『運が良ければ、日頃の“?”と通い合う“歴史理解の足掛かり”となる記述に出会えるかも・・・』
――くらいの、軽~いお気持ちで読んでいただければ、と思っています。

どうぞよろしくお願い致します。

◆さて、今回は『鎌倉彫と茶道』というタイトルで、
前回と同様に――考えようによっては、前回以上に――、たいへんタイトでヘビーな問題をとり扱うことになります。
これからの長い記述の道のりを考えただけでも、冷や汗がタラ~リタラリ・・・、
鼻血が出そうな緊張感に襲われますが、まぁ、そんなことを言っていても始まらないので、ここはひとつ開き直って、まずは『利休自刃までの日本茶道史の概観』から入って行きたいと思います。

なお、今後は、鎌倉彫制作・その他の用務とのバンランスをとる必要もあって、一日当たりの書き込み時間を制限し、内容が一段落するごとに、『順次更新』して行く予定です。
今までと違い、いわゆる連載型の「コマ切れ更新」になりますが、よろしくお付き合いくださいますよう、お願い申しあげます。
(※以下の記述は、主に「茶の本」岡倉天心著、「禅の文化」古田紹欽著、『四百年忌 千利休展』、その「鑑賞の栞」・・・等の資料を参考にしております。)


   
・利休自刃までの日本茶道史の概観

◆利休までの「茶道の歴史」のエッセンスを、
ノートふうに箇条書きで記すと、だいたい以下のようになるかと思います。

①平安時代初期
・・・中国から『喫茶の風習』がもたらされる。
②鎌倉時代
・・・『中国宋代の喫茶法』が禅院を中心に行われる。
③室町時代
・・・まず「唐物尊重
(からものそんちょう)」“茶の湯”が成立する。その後、村田珠光(:じゅこう1423~1502)、武野紹鷗(:じょうおう1502~1555)らによって、茶道具の選別や創作、茶室の改良、作法の整備が進められ、『わび』
の茶風の母体が形成される。
④織豊時代
・・・織田信長(1534~82)による『名物狩り』『茶湯御政道』、豊臣秀吉(1536~98)による『御道具ぞろえ』『禁中茶会(1585)』『北野大茶湯(1587)』――などの施策を通じて、茶の湯が「天下人」の権勢を誇示するための“政治手段”として利用される。
『わび茶』の大成者:千利休(1522~91)は、
信長に「茶頭」に起用されて「茶匠」としての地歩を固め、
信長の没後は、「天下の茶匠」として秀吉に仕えつつ、その側近となって政治にも関与した。
しかし、天正19年2月28日、秀吉の命により自刃。享年70歳(数え年)。。。

次回以降は、この歴史の流れに沿いながら、
“わび茶の精神”の内実を、
及ばずながら探求して行きたいと思っています。
                    (2012.1.23記)

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   ・茶の伝来 PART1

◆お茶の伝説でもっとも時代が早いのは――、
『天平元年(729年)の「季の御読経(みどきょう)」という仏教行事の第2日目に、聖武天皇が居合わせた僧侶達に引茶(ひきちゃ:上代の茶礼。行茶・挽茶とも書きます)を賜った』
――という言い伝えで(:一条兼良の「公事根源くじこんげん」の記述で史的確証はないらしいです)
これが本当なら、『茶の伝来』は、奈良時代初期頃には仏教儀礼の必要飲料として実現していたことになります。
※引茶・・・仏様にお供えしたお茶のお下がりを万座の衆僧に施す儀
       式。これは文化人類学や民俗学で言うところの
       “共同飲食”の一例で、同じものを飲食すること
       「神人和合」や「皆衆結縁」を目指すものと思われます。


また、近江の坂本の茶園には――、
『最澄さま(平安初期の804年に入唐、翌年帰朝)が唐から持ち帰った茶種を植えて育てたのが、この園の始まりだ』
――という言い伝えがあるそうで、ここでもやはり高僧高級官僚ではなく)事始めに関与しています。

正式文献では、「類聚国史(るいじゅうこくし)」に――、
『弘仁6年(815年)4月、梵釈寺の永忠という入唐僧が、嵯峨天皇に茶を煎じて献上した』
――という記述があるようです。
このご献茶がいたく御意にかなったようで、天皇が茶種の栽培を奨励されたため、畿内、近江、丹波、播磨のかなり広い地域で茶の生産が増加し、その後だんだんと、この唐風の喫茶趣味がお公家さん階級を中心に広がって行ったもようです。

◆もっとも、当時のお茶の入れ方は、
『団茶(だんちゃ。「淹茶:だしちゃ」「餅茶:へいちゃ」とも)』という漢方薬みたいな煮淹(にだ)し法によるもので、私達が今日の“茶道”から連想する『お抹茶』とは異なるものでした。

『団茶』『淹茶』『餅茶』とは――、
茶葉を蒸して茶臼で搗き、団子状・餅状に固めて乾燥・保存し、飲用時に必要分を削り取って、他の香味料(:甘葛あまかずら
生姜しょうが等)と一緒に煮淹して飲用する喫茶方法
――のことで、
中国の陸羽という人が書いた『茶経:ちゃきょう。「ちゃけい」とも』という本(嵯峨天皇の喫茶奨励の130年ほど前の著作)には、この唐風の文人趣味の喫茶法が、たいへん詳細かつ体系的に解説されているようです。
・・・もっとも『茶経』は、お茶をいかにおいしく飲むかに主なウェイトがおかれた著作で、日本の茶道に見るような深い精神性は盛り込まれていないようですが・・・

一方、有名な玉川子盧仝(ぎょくせんしろどう)の『茶歌(ちゃか)』という詩文を読みますと、唐代のお茶が、道教的な『神仙思想』との関わりにおいて飲まれ、仙境に遊ぶための仙薬として重んじられていたことがうかがえます。

【参考:『茶歌』の終わりの部分の意訳】
一椀目で喉や唇がうるおい、
二椀目で孤独の苦悶がなくなる。
三椀目で、文才が枯渇した心中をさぐってみると、
     五千巻の文章が胸中にあるだけで、
     詩人として完璧な境地
四椀目で軽く汗が出て、
     日常の不平不満も毛孔から雲散霧消してしまう。
五椀目で皮膚から骨まで清らかになり、
     六椀目でとうとう仙人や神霊と通じ合う境地に達する。
七椀目はもう喫することができない。
     両脇にしゅうしゅうと羽音がして、清い風が生ずるのを感じ、
     仙人になってしまったようだ。
さて、仙人のいる蓬莱山はどこにあるのか。
玉川子(=私)は、この清風に乗って、その山の方に飛んで帰って行きたいなぁ。。。


団茶の喫茶法は、日本においても、漢詩文学を愛好する文人たち(主にお公家さん階級)の間でかなり流行ました。
(これは明治時代の知識階級が、舶来のコーヒー・紅茶を有難がって愛飲したのと似ていますね。。。)
しかし、894年に遣唐使が廃止になると、文化全体の国風化(和歌・和物語・和風書体・寝殿造り・大和絵などの隆盛化が進み、これに反比例して唐風文化はだんだん廃れ、結果的に上層階級の団茶法もほとんど行われなくなったそうです。
   
【参考】
日本の茶樹をDNA鑑定すると、奈良時代に伝わったらしい朝鮮系のものと、室町時代に伝わったらしい中国杭州付近のものの2系統に分類できるそうです。
DNAによる樹種判定→伝来時期判定にいたる科学的根拠が今一つ分からないので断言はできませんが、
これが本当なら、我が国に最初にお茶をもたらしたのは、朝鮮からの渡来人であった可能性も出てきます。

また、のちにお話しする栄西禅師の『喫茶養生記』
(鎌倉初期の著作)に、肝心の茶樹の「栽培方法」に関する記述がないことを重く見て――、
『当時すでに日本の茶樹の栽培が各地で行われていて、栽培方法をあらためて説明する必要が無かったのだ。その証拠に、1191年:(鎌倉幕府開幕の1年前)の九条兼実の日記・「玉葉」には、『引茶の行事』が(遣唐使廃止後も)継続して行われていたことを確認できる記述あり、また当時のその他の記録にも「所領からの公事(特産物献上)としてお茶が納められていた」という記述がある。』
――とする意見(山中直樹氏の所説)もあり、
これによれば、遣唐使廃止後の平安中期・後期も、団茶の喫茶は愛飲者の間でずっと続いていたことになります。
(※山中氏は、菅原道真・空也・藤原道長などの喫茶に関する記録を基に、この説を傍証してみえます。)

とにかく昔のことなので、伝説・通説・定説・新説等々いろいろあって、
茶道史の事実関係は断定的に記述しにくいことが多いです。。。


◆以上を概観しますと、日本の『茶の伝来』には、2つのポイントがあるように思います。
①天皇への献茶など、その「事始め」に“入唐僧”が関与していること。
②まず僧侶が喫茶を推奨したこと。

は、当時の留学帰朝僧が、
世間からすごく尊敬され、上層階級から最高の厚遇を受けていたことを、実証するエピソードです。 

当時、中国の最新文化を効率よく輸入するのは、ほんとうに一大事業だったと思います。
その輸入を成し遂げ、内容を上手に消化吸収して、国内での実用化に尽力した留学僧たちは、
今風に言えば、
『惑星間旅行+最先端技術の国産事業化推進+国民栄誉賞・文化勲章の同時受賞』を、
すべて単独で成し遂げてしまうようなウルトラスーパーヒーローでした。

彼らが仕入れた知識は、仏教の哲学・思想・修行法にとどまらず、儒教・道教・医学・薬学・文学・法学・工学・建築学・天文学・易占学・美術工芸等々の多分野に及び、
また、そのような高僧の住む大きなお寺は、
「究極の学際的研究機関」「大学院レベルの教育機関」「施政の諮問機関」「加療所」「施薬所」「病者・貧民・孤児の福祉事業所」「よろず相談御祈祷所」・・・
などなどの諸機能をテンコ盛にした、活気あふれる一大文化施設でした。
※高僧・大寺に対する幅広い国民層からの期待は、
 本質的には鎌倉時代(栄西・道元など)
 ――かなり弱まりはするものの――
 さほど変わりなかったようです。


その上、彼らは仏教の修行を通じて『非凡な精神力(:神通力などの超人的なパワー)』を得ていると信仰されたため、
プライベートな点でも、上層階級のガイド・アドバイザー・カウンセラー・ヒーラー的な役割を果たしていたと想像します。
つまり国政の最高中枢部に影響を与え得るという意味で、彼らは無類の好位置に坐を占めていたと思うのです。
こうして見ると、『天皇への献茶→国産茶の大規模栽培の奨励』は、入唐僧・永忠が、在唐時から思い描いていた『一大計画』であったような気もします。
茶税が新財源として期待できることなどを、上手に進言したのではないでしょうか。
※『永忠と嵯峨天皇』のような事例は、あとでお話しする鎌倉時代の
 『栄西と源実朝』の間でも繰り返されています。


は、『仏教の修行』と大きな関係があると思います。
つまり、僧侶が修行時の倦怠感に対抗するために、しばしばお茶の覚醒作用を有効利用していたため、
お茶の効用を知り尽くしていたからだと考えられます。

ほとんどの場合、仏教の修行は“覚めきった意識”を重んじます。
いろは歌の最後のところで「あさき夢見じ、酔ひもせず」と歌っているあの気持ち・・・
『未来の夢や過去の幻なんか決して追わない、いつも今ここで意識明瞭でいるんだ』という気持ちは、
あるべき修行姿勢をシンボライズした『木魚』(←魚は常に目を開けているので)にも読み取ることができます。

当然ながらこの“意識明瞭”という基本姿勢は、坐禅・冥想の修行中にも強く求められますが、
この時に大きな障害となるのが、疲労や惰性から生じる“眠気”と“倦怠感”と“憂鬱”です。
※坐禅・冥想と言うと、“禅宗の専売特許と思われがちですが、
 古来より仏教は、宗派を問わず何がしかの“冥想修行”を
 伴う
もののようです。

 宗派によって、冥想の“作法”や“動・静の力点の置き方”は
 それぞれ異なるようですが。。。


自己の内側に沈潜して行く修行は、長時間続けると、どうしてもだんだん眠くなりボーッとします。
やる気も無くなってきますし、ブルーな気分にもなります。
お茶の覚醒作用は、このような『惛沈(こんじん)』と呼ばれる精神的凹状態を解消するうえで、
最も安全かつ手軽な方法だったろうと思います。
 ※逆の凸状態を『悼挙(:じょうこ)』と言います。
  いわゆる躁状態のことですが、これもお茶の作法に
  習熟してくると、上手くコントロ-ルできるらしいです。


話はちょっと飛びますが、戦国時代になると、お茶の覚醒作用は、戦闘者の戦意高揚にも利用されます。
三船敏郎さんが千利休を演じた傑作『本覚坊遺文』という映画の中には、出陣前の鎧装束の武将達に、利休が超エスプレッソなお抹茶のお濃茶を回し飲みさせて観念させるシーンがあり、その時の利休のいかにも重苦しい表情が妙に印象的でした。。。

団茶には抹茶ほどの覚醒作用はないと思いますが、
作法に則って入れたお茶をたくさん飲めば、玉川子盧仝くらいのハイな気分にはなれる模様ですので、
嵯峨天皇もそのあたりの“リフレッシュ効果”をご評価なさったのかもしれません。。。


   ◆閑話休題――。

今回はおもに、鎌倉彫を好んでくれた“茶人”に焦点を絞って、
『そもそも“茶人”とは?』を浮き彫りにするために、
その核心と思われる
“喫茶法の来歴”~“茶の湯・茶道の成立”~茶禅一味”~“わび、さび”~“和敬清寂”等々
について考えて行こうとしているわけですが・・・、
しかし、どの資料を読んでも、歴史上の「茶」の愛好者は“ただ者ではない”方々ばかりで、
ほんとに呆然とします。
現代の自分の周囲にはまず見当たらない、
一度も会ったことが無いようなタイプの人達ばかりです・・・。

「鎌倉彫」が喫茶に関与したと思われるのは、
・禅院で抹茶を嗜むようになった鎌倉時代、
・書院でお公家さんが“鎌倉物”を重用した室町時代、
・天下泰平を実現した江戸時代、
・あとは明治・大正~現代にかけてですが――、
肝心の茶道の創成期(珠光・紹鷗・利休の時代)の鎌倉彫の位置づけが、
今のところ、もうひとつはっきりしません。。。

『唐物尊重』の茶の湯→「和漢の境を紛らかす工夫」→『わび茶』の成立・・・という流れの中で、
「尋陽江紋香合」のような鎌倉彫香合が紹鷗の頃から茶道に取り用いられたと思われる
という解説(陶説:第230号p.13小田栄作氏による)は確認できましたが。。。
    
紹鷗や利休のような堺の納屋衆(なやしゅう)が、鎌倉出来の茶具を心中どのように評価していたかが、いまひとつ???です。
もう少し調べてみますが、この辺の経緯にお詳しい方がいらしたら是非ご教示ください!

ともあれ、類書に解説されている
「茶道の精神」については、鎌倉彫師としても“そうだなぁ~”と思えるところがたくさんあり、
そういう意味では、すごく興味深いテーマです。。。

いまさらですが、この随想録の趣旨は、
『鎌倉彫に惚れ込んでくれた人たち(:僧侶・文人・茶人など)の心の中』を想像し、
鎌倉彫のどこが彼らを惹き付けたのかを考えること
でしたが、
茶道はとにかく間口が広く奥行きも深く、茶人の心をまさぐって推し量るだけでも一苦労二苦労で、
なかなか「鎌倉彫との具体的な関連」まで辿りつけそうにありません。

当分、必ずしも鎌倉彫に直通しない『茶道』中心の話題になってしまいそうですが、
――鎌倉彫との交点を随時意識しつつ――、
とにかく行けるところまで行ってみようと思いますので、
どうか、宜しくお付き合いくださいませ。m(__)m
                                                      (2012.3.8記)

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 ・茶の伝来 PART2

◆前回掲載分の「茶の伝来PART1」の記述内容は、主に「茶道辞典:桑田忠親編」の“茶道史概説”を下敷きにしたものでしたが、
記述しながら、どこか“モヤモヤする感じ”あり、
ネット検索で見つけた山中直樹氏のアンチ・テーゼ:DrBEAUTのOTAPY日記(2012.2.23付)
の要点を、【参考】という形でご紹介しました。

◆講師がもっともモヤモヤしたのは、“茶道史概説”の
『遣唐使廃止後に文化全体の国風化が進むと、中国伝来の喫茶法はほとんど行われなくなった』
という内容の解説でした。
(但し、同書で桑田氏は、『しかし、(喫茶の風習が)絶滅したとも思われない』とのフォローを付け加えてみえます。)

――お茶みたいに“依存的常習性”のある習慣が、そんなにあっけなく廃(すた)れるものだろうか?――

という疑念がどうしても拭いきれませんでした。
(・・・これは、講師の食い意地が張っているかもしれませんが・・・笑)
   
そこで、試しにネットで検索してみたところ、運よく山中氏の所説に行き当たったのでした。。。

◆その後、類書をいろいろ調べてみたところ、
山中氏の所説とたいへん似通った内容をもつ、非常に読みごたえのある2冊の本に出会いました――、

・『茶道の歴史:谷端明夫著 淡交社 2007年刊』
・『茶の湯の歴史:神津朝夫著 角川選書 2009年刊』

――最初に参照させて頂いた「茶道辞典」が1956年初刊ですので、当然と言えば当然なのですが、
50年の間に、茶道史の「学術的な研究」がたいへん進んだことを痛感しました。
(とは言え、上記の2冊の書籍には、その所論に微妙な研究スタンスの相違が感じられ、その所説には必ずしも重なり合わない部分があるようです。

今後は、この2冊を主な参考文献に据えつつ、
さらに村井康彦氏、矢部良明氏、中村修也氏、内田篤呉氏、池田巌氏、芳賀幸四郎氏・・・etc.
――のご研究を交えながら、少しずつ記述を進めて行こうかな、と思っています。

◆まずは、『茶の伝来PART1』の記述を振り返って、
「茶道辞典」と上記の「新しい2冊の書籍」との間で“食い違う部分”を2点挙げておきたいと思います。

①“茶道辞典”では、
『嵯峨天皇の“梵釈寺行幸(AD815年)”約130年ほど前に“茶経”が成立した』
と解説されていますが、
“茶の湯の歴史”“茶道の歴史”では、茶経の成立はAD760年頃となっており、これによれば
『茶経は行幸の約55年ほど前に成立した』ことになります。

②“茶道辞典”の「永忠」の項には、
『嵯峨天皇への献茶の一件が“類聚国史(892年成立)に記録されている』と書かれていますが、
新しい2冊の本には“日本後記(840年成立)となっており、「初出文献」という視点で考えると、“日本後記”の方がより適切な表記だと思われます。

――以上で、「“茶道辞典”の???部分」はチェックできたと思いますので、
次に、神津朝夫氏の“茶の湯の歴史”から「茶の伝来」に関するハイライト部分を、いくつか、ご紹介したいと思います。
(実はこの本、かなり面白い本なのです!)

神津朝夫さんの“茶の湯の歴史”を読んで『興味深い』と思った点
文中の『※~小さな文字の文章~』は講師の“つぶやき”です。


①茶経の著者である陸羽が、高級官僚に招かれて“お茶の手前”を披露した時、
「たいへん粗末な服装をしていた」という記録があるそうです。(陸羽と同時代の封演が著した「封氏聞見記」第6巻の記録によるものです。)
これが本当なら、後世の日本の「わび茶の精神」に通じるものがあって、なんとも不思議でゆかしい記録です。

②陸羽の“茶経”には団茶(:原典の記述は「餅茶」で“円盤状に固めた茶”のことだそうです)のほかに、「粗茶」「散茶」「末茶」の分類があるそうです。
・粗茶は「焼茶」のことで、茶の小枝を焙り、葉をむしって湯に入れて煮だす方法。
・散茶は、茶葉をそのままの形で乾燥させたもの。
・末茶は粉末状にした「抹茶」のことかも知れない、とのことです。
(・・・つまり陸羽の時代に、中国ではもう抹茶が飲まれていた可能性がある、ということです。)

③DNA鑑定では、日本のすべての茶樹の祖先は「特定種の中国産」だったそうです。

また、山口聰(さとし)氏の“茶樹のめしべの形の相違”に関する調査研究によれば――、

・まず平安初頭以前に、朝鮮半島と同じ型の茶種が本邦に渡来し、
・ついで室町時代に、中国杭州近郊の径山(きんざん)の茶種が渡来した、

――と推測されています。

現在、日本全国に広まっている茶種は“径山由来”のもので、それとは異なる「宇治・足久保・背振(せぶり)」の在来茶園の茶種は、“朝鮮半島由来のタイプ”だと解釈できそうです。

茶の初伝来・ルーツを考える時に“朝鮮半島との関わり”が浮上してくるのは、後々の茶の湯の展開や、秀吉による朝鮮出兵と利休自刃の因縁などを考えあわせると、たいへん複雑でもの悲しい気持ちになります。。。

上記のDNA鑑定やめしべの調査研究を概観すると、
――以下は単なる直感ですが――、
茶の初伝来は“朝鮮半島経由の帰化人”が成し遂げた業績だったのではないかと思えてなりません。
聖徳太子の活躍した頃(AD600年前後)には、多くの帰化人が、我が国に渡来して日本文化の創建に尽力してくれました。
彼らが故郷の中国や朝鮮を後にする時、慣れ親しんだ“お茶の実や苗木”を同伴して、『帰化後の日本でも、せめて喫茶を楽しみたい』と切望したであろうことは、容易に想像できます。
初対面の倭人への手土産としても、“お茶”は手頃で最適だったのではないでしょうか。
山口聰氏の推測とは少なくも150年以上の隔たりがあり、学術的に“あり得ないこと”かもしれませんが。。。。

例えば「宇治・足久保・背振」の地名・農工具・農業遺構・習俗・民間信仰などに、帰化人の参与を暗示するような民俗学的な痕跡など、まったく見当たらないないものでしょうか。。。

紀元前後に著されたとされる中国の『僮約どうやく』には、“餅茶”のことがすでに記述されているようですし、
朝鮮半島と日本は目と鼻の距離ですし、
そういう恵まれた時間・空間の条件下で、茶の実・茶の苗木がもっと早い時期に(:仏教伝来と同時期くらいに)伝来していたとしても、さほど不思議ではないと思います。
古すぎて記録もなく確認しにくいことかもしれませんが、
お茶みたいな“常習的で普遍的な嗜好品”への愛着を、
海の向こうからの移住者が、そうそう簡単に断ち切れるはずがないような気がするのですが。。。


④嵯峨天皇には、永忠の献茶を受ける前年に、藤原冬嗣や皇太弟とお茶を飲んだ記録があります。
でも、その時のお茶はあまり美味しいと思えなかったらしく、翌年、永忠の“本場唐仕込みの点茶法(永忠の在唐年数は30年!)”に接して、
はじめてお茶の美味しさについての認識を新たにしたと考えられます。

今日でも、名人達人が気を配り、ツボを押さえて点てたお茶は格別の味がすると言いますが、嵯峨天皇の場合も同じだったようです。

⑤嵯峨天皇が「茶樹栽培奨励」の勅命を畿内に下したのは、その時点(815年)で、勅命に応じうる「茶園」が国内にあったという証拠で、その気になれば、相当数の茶の実を採取調達できる環境条件が整っていたのだと考えられます。

そこで、茶の実を植えてから一人前の茶樹になるまで7~8年かかることを考えると、
茶の実が蒔かれたのは「807,808年以前」と逆算され、これは最澄・永忠の帰国年(805年)、空海の帰国年(806年)とほぼ符合します。

しかし・・・・・・、
この三人の帰国のタイミングは、茶の実を首尾よく蒔いて発芽させるには不適当で、三人の誰かが茶の実を日本に将来したとは、どうしても考えにくいようです。
(茶の実は晩秋に完熟し、完熟後6か月以内に植えないと発芽率がきわめて低いそうですが、
最澄・永忠の帰国(6月)と空海の中国出帆(8月)のタイミングは、順当な播種のタイミングと適合しないのです。。。)

それなら逆に考えて、
順当な播種のタイミングとマッチするような「中国出帆→本邦帰国」を果たした遣唐僧は誰か・・・というと、
宝亀9年(778年)11月に帰国した「戒明・膳議」の二人の僧侶しか見当たらないそうです。

この二人の僧侶が「大安寺」の出身で、
大安寺が生粋の唐僧(:菩提僊那ぼだいせんな・道璿どうせん・思托など)の住持した“唐文化のメッカ”みたいな大寺院で、
そのうえ膳議の孫弟子が、お茶と縁の深い“最澄”であったこと等々を考え合わせると・・・、
『茶の伝来者は、彼ら二人をおいて他にいないのではないか』と結論付けたくなります。

このあたりの理詰めの推論は、推理小説を読んでいるみたいで、かなり面白かったです!
でも、遣唐使や遣唐僧が、お茶を「苗木」で持ち込んでいたとしたら・・・どうなるんでしょうか・・・???


⑥日本後記には、永忠が「手づから茶を煎じ」たと記載されており、嵯峨天皇の目の前で、永忠自身が茶具と手前を披露しながら、献茶した可能性が高いようです。
飲む人の目前で茶を煎じるという中国古来の作法が、日本においてもそのまま継承踏襲されたと考えられます。

“飲む人の目前で茶を煎じる”というのは、たぶん、“毒なんか入れてませんよ”というアピールのために生まれた中国らしい作法だと思われます。
永忠が天皇に対してそのようなダイレクトな献茶ができたのは、やはり彼が尊敬される立派な遣唐僧だったからでしょう。

ところで、このような“亭主と客の心遣いのすべて”をディスプレイする作法の基本は、後世の茶の湯の道にも受け継がれました。
そのおかげで、茶道は目に見、鼻に香り、耳に聴き、舌に味い、手肌に触れる「総合芸術」へと深化しました。
つまり、茶室空間の陰翳や芳香、有音の静寂、お手前の動静と間合い、茶具の工芸美、茶や料理そのものの味わい等々を、亭主と客が全身全霊で実感し交歓し、楽しく大真面目に遊戯三昧する『時空浄化の芸道』にまで昇華されたのです。

その端緒は、実はすでに陸羽の活躍した唐の時代から、芳しく芽吹いていたのだと推測されます。



⑦遣唐使廃止後も、喫茶の風習が存続していたであろうことは――、

・菅原道真の漢詩、
・博多の鴻臚館(こうろかん)遺跡から出土した青磁茶碾子(:お茶を挽く道具)の軸輪、
・宇多法皇が仁和寺宝蔵に納めた茶具のセット、
・宮中の「引茶の慣例」の寺院への普及、
・天台座主良源が定めた「法会時の煎茶膳食饗応停止令」、
・寺院での「北斗供・御影供・仏生会」に際しての献茶供養の慣例、
・行基伝説の由来を持つ10世紀末の三河の薬王寺の茶園の存在、

――等々の傍証によってほぼ定説化されつつあるようです。

しかし、この時期の記録に残る喫茶の慣習は“僧侶・寺院がらみ”のものが多く、
お公家さんはほとんど登場しません。
平安後期から、お公家さんは何故か、こよなく『酒』を愛するようになって行くのです。

遣唐使廃止後、公家階級の漢詩文学趣味は流行らなくなったということですが、李白・淵明・白楽天あたりの「愛酒の習癖」だけは、お公家さんの身心にしっかり刻印されたということでしょうか。
「酒宴」は“秘密”や“本音”を引き出すための情報交換の場でもありますから、平安後期以降の社会構造の変化に伴う“公家社会の混迷状態”を想像すると、「定期的に集まって酒を飲むこと」は大切な処世術の一つでもあったろうと思います。


こうしたお公家さん達の病的な愛酒癖は、やがて平氏の荒武者達をも吞みこんで骨抜きにし、悪い意味で公家化した平氏はやがて硬派の源氏に大敗して政権を奪われます。
その後、源頼朝が京都を嫌って鎌倉に開幕したのは、新政権が京都のお公家さんのデカダンスに毒されることを恐れたからだ、とも言われています。

このあと⑨の「道慈の漢詩」でもご紹介しますが、「お酒」は昔から「お茶
(≒香水)」の対極に位置づけられる飲み物でした。
・お酒は、「俗人」の飲み物で、心を「陶酔」させ、飲みすぎると「毒」になり、身心を「汚濁」する。
・お茶は、「聖人」の飲み物で、心を「覚醒」させ、飲み続けると「薬」になり、身心を「浄化」する。
――というのが、古来からの一般認識だったようです。
(お酒好きな人からは異論が出そうですが。笑)

この「聖」「覚醒」「霊薬」「浄化」というキーワードは、“茶の湯の本質”を考える上で――ひいては、茶の湯に取り入れられた“茶道具としての鎌倉彫の特質”を考える上で――かなり“重要なポイント”になるだろうな、と考えています。。。


⑧ここで少し時代が遡りますが、最近の発掘成果の中には“奈良時代の茶の存在”を傍証する考古学資料もあるようです――、

・興福寺一乗院跡の土壙から発掘された奈良時代末期頃の緑釉(りょくゆう)の風炉(:火舎)と釜
・同じものが京都府木津市の樋ノ口遺跡、近江の崇福寺跡、山城国府跡からも出土

――緑釉陶器は当時の日本では最高級の焼き物で、日常の消耗品ではありえず、
特別な喫茶用具ではなかろうかと考えられているようです。
緑釉陶器のオリジナル・モデルは、
中国越州窯産の青磁の茶碗(:茶経の中で最も重んぜられています)や茶托、水注などで、
これらも8世紀末の地層から出土していることを考え合わせると、日本への茶の伝来は、どう控えめ目に見ても、やはり「8世紀末頃」までは遡れそうだと考えられます。

⑨また、奈良時代には、寺院で「香」が飲まれていたらしいです。
お香は仏前で炷(た)かれるだけでなく、
僧が体に塗る「塗香(ずこう)」、口に含む「含香(がんこう)」としても使われていました。
そのような香を水に溶かしたものが「香水(こうずい)」で、観音様の持物の水甁(すいびょう)には、香水が入っているのだそうです。

奈良時代の漢詩集「懐風藻(かいふうそう)」には、入唐僧の道慈(718年帰朝)という人が
僧侶と俗人との相違を『香盞(こうさん)酒盃また同じからず(:盞は杯のこと)』という詩文で表現しており、
少し時代が下りますが、鎌倉初期に活躍した栄西禅師は、その著書“喫茶養生記”の中で、5種の香の粉末を釜で煎じた「五香煎」を“薬”として飲むことを勧めています。

※『香水を飲むなんて、なんのためにそんことを・・・?と思われるかもしれませんが、
例えば、聖徳太子が重んじた三経のかなめである「法華経」には、
有徳の仏・菩薩・法師から「かぐわしい芳香が発せられる」ことが、
懇ろに説かれています。
今でも仏教寺院はかぐわしい香の匂いで包まれているものですが、
「良い匂い」は時代を問わず、“有徳者の証し”“信者への癒し”だったのではないでしょうか。

昔からインドの聖者は、説法に先だって信者から“花輪”の供養の受けますが、これはおそらく、街から街へと巡錫行脚した往時の聖者の“旅臭”を中和するための、信者のさりげない“思いやり”から生じた風習なのではないかと思います。
有徳の聖者ほどたくさんの花の芳香に包まれて、良い匂いを漂わせたことでしょうし、信者もそんな聖者と一緒にいるだけで爽やかな「アロマテラピー効果」を満喫できたことでしょう。。。

また、聖人は死後もかぐわしい芳香を放つことを求められたらしく、その旅立ちに先立って、様々な防臭・芳香の工夫がなされていたようです。
“お香”を飲用して体臭を体内から清浄に保つことは、死期を悟った高僧にとっては、とりわけ重要なマニュアルだったかもしれません。

“緑茶”にもかなりの“消臭・抗菌効果”があることを考えると、“嗅覚への影響”という点で、「お香」と「お茶」は「
記号」で結ばれそうです。
往時の僧侶が「喫茶」だけでなく、「茶水」や「茶葉の出し殻」などで“体臭浄化”を試みていたとしても、なんら不思議はないように思います。。。

平安時代になると、茶は「僧の飲み物」「仏への供物」として、あらゆる寺院に普及して行きますが、
その前段階として、上記のような香水・香煎の慣習がポジティブな役割を果たしていたのではないか・・・
というのが、神津朝夫氏の推論です。。。


◆さて、『茶の伝来』に関する話題は、そろそろこの辺で終わりにしたいと思います。

次回からはいよいよ注目の“鎌倉時代”に入って、
抹茶法(=点茶法)の始祖と仰がれる『明庵栄西禅師』を取り上げる予定です。

でも、先ずその前に、『鎌倉彫のおおまかな歴史』についても簡単にお話しして、茶道の歴史と鎌倉彫の歴史が今後どのように交わりそうか――何がテーマになりそうか――、
だいたいの見通しを立てられたらいいな、と思っています。(これはとても難しそうですが・・・)


「乞うご期待」という自信は相変わらずありませんが、
“気まぐれな思い付きを書きつらねる”という点では、ご期待に添えますように努力いたします。 
今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。m(_ _)m
                     (2012.4.26記)

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・鎌倉彫の歴史文献
  
“茶の湯”との交点を探る~PART1

さて今回は、
『鎌倉彫の歴史』を振り返りながら、
鎌倉彫と茶の湯との歴史的な“交点”をチェックして、今後、このページで取り上げることになりそうな“テーマの見通し”を探ってみたいと思います。

◆まず――『鎌倉彫の歴史』について――ですが、これはもういろいろな関連書物に書き尽くされている観がありますので、とりあえず、その中から特に“重要”と思われるポイントを、ノート風に箇条書きで要約・整理してみたいと思います。


 A.鎌倉彫の文献上の資料について

灰野昭郎先生によると、昭和52年の時点で、以下の7つの文献が挙げられるのだそうです。

この7つの資料は、鎌倉彫と茶道の歴史を考える上で、たいへん重要と思われますので、“意訳”を付けて、やや詳しくご紹介したいと思います。
・文献は、灰野昭郎著『鎌倉彫』S52年京都書院刊P.254~より抜粋しました。今日ではより新しい重要資料が発見され、追加されている可能性もあります。
・また、【意訳】は講師によるものなので、誤訳があるかもしれません。。。(2012年7月17日記)

その後、第8番目の文献資料として『茶器名物図彙』を追加しました。(2012年7月21日記)


①『萬寶全書』
(:内容解説はこちら
元禄7年=1694年成立。その『巻八 和漢諸道具見知鈔』の第23『蒔絵之物時代目録』にみえる以下の一節)

・鎌倉雕・・・雕物:唐物に似たれども、内乃つくり日本物と見ゆる也。
【意訳・・・ほりもの:(外見は)中国製に似ているけれど、中身の造りは日本製と思われるものである。】
・越前雕・・・雕物:右(:鎌倉雕と)同類之物なり。
【意訳・・・鎌倉彫と同類の物である。】
・小田原雕・・・雕物:牡丹菊唐草紋大なり、ほりあさし。
【意訳・・・牡丹や菊の唐草文様が大きくあしらってある。彫りは浅い。】



②『中興名品録(千家名物記)』
坂本周斎記。元禄年間頃成立。その『香合之部』にみえる以下の記述)
・鎌倉彫牡丹獅子 神戸彦七

坂本周斎(1666~1749)は、江戸中期の茶人で、号は閑事庵。『閑事庵宗信日記』『雪間草』などの著作があります。
神戸(かんど)彦七は、名古屋の材木商:「犬山屋」(←神戸家の店)の江戸町屋敷経営に深く関わる人物で、江戸霊岸島東湊町に住んでいた模様です。
この彦七なる人物が、名物(めいぶつ)の鎌倉彫の“獅子牡丹文様の香合”の所有者であるということらしいですが・・・
・・・この理解で大丈夫なのか、あまり自信がありません。。。

  

③『櫻塢漫録おううまんろく(:内容解説はこちら
(加賀美櫻塢(1711~82)の著?・・・詳細不明。未公刊本。『古事類苑』産業部漆工に掲載。)

鎌倉彫は、四條帝の御宇、運慶の孫(:康運の男)康圓(こうえん)、陳和卿(ちんなけい)と共に法華堂の佛具を彫りたるを始(はじめ)とす。鎌倉彫は、康圓より康譽(こうよ。康勝の男)、宗阿彌(そうあみ)、浄阿彌、相傳ふ。浄阿彌北条家の命により、寶戒寺の法具を彫刻し、五彩の繪具を以て塗る。これを木蘭塗といふ。これ鎌倉彫の変化したるものなりとぞ。

【意訳・・・鎌倉彫は、四條天皇の御代に、「運慶」の孫で「康運」の息子である「康圓」が、宋人の「陳和卿」とコラボして、法華堂の佛具を彫ったのが、始まりである。鎌倉彫は、康圓→康譽(康勝の息子)→宗阿彌→浄阿彌と相伝された。浄阿彌は、(小田原の)北条氏の下命で、宝戒寺の法具を彫刻し、五色の顔料を使って塗った。これを「木蘭塗」と呼ぶ。木蘭塗は鎌倉彫の変化形であると言われている。】
  

④『茶道全蹄』(:内容解説はこちら
黙々斎稲垣休叟編纂。弘化四年=1847年。その『香合の部』にみえる以下の記述。)

鴛鴦(ヲシトリ)・・・妙喜庵の松之木を以て製す左近作原叟好乃老松の割蓋と同木なり 原叟書付数三十七又別に残木にて天然写し十三あり合て五十なる、尤千家にこの鎌倉彫あり其うつしなり。

【意訳・・・(鴛鴦文様の香合は)妙喜庵の松の木で制作した。戸沢左近(:当時一流の挽き物師・塗師)作、原叟(:表千家六世)好みの「老松の割蓋」と同じ木を使っている。原叟の書付の数は37あり、それとは別に、残った木でオリジナルをそのまま写し取ったコピーが13あるので、合計50になる。ただし、(この香合のもともとのルーツは、)千家伝来の(鴛鴦文様の)鎌倉彫香合があって、それをコピーしたものである。】


⑤『形物香合相撲』(:内容解説はこちら
安政2年=1855年。その中の“世話人”の欄に“鎌倉彫”の記載あり。)


⑥『建長寺常住下行牒』
文久2年=1862年。その中に「鎌倉ボリ香合修善費・二貫十七文」の記載あり。)
※当時の2貫17文は、現代の金額に直すと、“4万円くらい”になるそうです。。。


⑦『工藝志科』(:内容解説はこちら
黒川真頼著 明治11年=1878年。その中に以下の一節あり。※長いので、意訳だけ紹介します。)

【意訳・・・建久元年(AD1190年。皇紀1850年)に源頼朝が京師(京都?)に入る際に、「中持(なかもち)」を調度品として使い、色々な物を納めて、運搬に利用した。中持は「辛櫃(からひつ?唐櫃のことか?)」の仲間で漆器である。この後、武家が物を遠近に運搬する際に「中持」を利用することが多くなった。
この時すでに頼朝は幕府を鎌倉に開き、その景気の良いことは京師(京都?)に次ぐものだった。そのため、たくさんの漆職人が鎌倉に集まった。その職人の中に、特徴のある漆器を造り出す者達があった。“造形彫刻した器物に彩漆を施す”というもので、これを『鎌倉彫』という。
――鎌倉彫については、以下の項目で詳しく述べるので、参照してほしい――
◎鎌倉彫とは・・・・・・
思うに、鎌倉彫は、古人が残した彫木作品であろう。
建久3年(AD1192年。皇紀1852年)頼朝が鎌倉に開幕するに及んで、色々な職人が鎌倉に集まった。その制作した器物の中に、彫木の器物が出現した。牡丹・梅花・菱・紗綾形(さやがた)・雲形等の文様を彫って、まず黒漆を塗って、その上に朱漆を塗って装飾したものだ。(器物の内面はすべて黒漆塗りである。)後世の人が、これを鎌倉彫と呼んだ。その造りはおおらかで、風流な趣が漂う。
また、「越前彫えちぜんぼり」というのもあって、いつの時代のものかはっきりしない。(ただし、歴史的には鎌倉彫よりも若いものだろう。)その造りは鎌倉彫と同じようなものと思われる。
また、小田原彫というものがあって――、
推測だが、北条氏が明応4年(AD1495年)に小田原に本拠を置き、関東数国を領有した際に、小田原は関東の都市として開けたわけだが、この時に集まって来た職人たちが、鎌倉彫をまねて造りだしたものだろう
――その小田原彫の彫り方は、鎌倉彫に比べるとやや浅いものであるようだ。
鎌倉彫・越前彫・小田原彫の命名は皆、その制作地の地名にちなんで名付けられたものである。
天正元年(AD1573年)に織田信長が足利義昭にとって代わり、天下の形勢が一変した。
その後、彫木の漆器はだんだん好まれなくなり、職人もこれをそれほど造らなくなった。。。】


⑧『茶器名物図彙』(:内容解説はこちら
大阪の数寄者 草間直方(1753~1831)の著。大阪図書館蔵。全95巻。その『越前彫』『小田原彫』の項に以下の記載あり。)

・越前彫・・・道元禅師を開山とす、今之永平寺是なり、右伽藍建立之節鎌倉の職人良工之分越前へ下り堂塔の彫物をす、其砌(みぎり)香合なと寺僧頼ミて出来しといふ、今鎌倉彫と一チやうに取り扱ひ、見分けかたし

【意訳・・・道元禅師を開山とする「永平寺」の伽藍を建立する際に、鎌倉の職人の中でも腕の良い者が越前に赴いて、堂塔の彫り物を手がけた。その折に、香合などを寺僧の依頼で制作したという(のが越前彫の由来だ)。現在では、鎌倉彫と一様に取り扱われていて、両者を見分けるのは難しい。】


・小田原彫・・・北条早雲之頃、鎌倉之彫物を手本として、寺院を領内に建立し、其時皆鎌倉を摸す、其細工ふつつかにして、花鳥牡丹なと浅彫し、本鎌倉より下手にて皆大キなる香合之類多し、小田原と前々ハ申唱候て、広嶋屋十助なとハ毎々其事申居候、今ハ皆鎌倉と称へ、其分リ之考へ無之道具屋多し、相州早雲寺にあり、右日本彫物之類も偽物多し

【意訳・・・北条早雲の時代に、鎌倉の彫り物(:建築彫刻を含む?)を手本として、領内に寺院を建立したが、その時、すべてにおいて「鎌倉彫」の様式を摸倣した。その彫りの技巧は行き届かないもので、花鳥や牡丹などを浅く彫り、本場の鎌倉彫より下手で、どれも皆サイズの大きい香合類が多い。
前々は「小田原彫」とはっきり言っていて、広嶋屋十助(:懇意の道具屋?)などは、その都度その事を言い添えていたが、現在ではなんでもかんでも「鎌倉彫」と称して、それらを識別する鑑定眼の無い道具屋が多い。

(小田原彫は)相州の早雲寺が所蔵している。
以上のように、日本の彫り物の似通ったものでも、偽物は多いのである。】





◆昭和52年刊の灰野昭郎先生の『鎌倉彫』によれば、「鎌倉彫」の確たる文献上の資料は以上の①~⑦に尽くされるようで、灰野先生ご自身も同書の文中で、「その少なさは意外である」と述懐されています。。。


ともあれ、現在周知されている「鎌倉彫の歴史」は、これらの希少な“文献資料”、“箱書・極書等の銘文”、“現存する歴史的作品の調査・研究”、絵画等の“視覚資料の観察・吟味”、“意匠・技法等の史的変化の研究”などを通して、専門の学者・研究家が、論理と実証を駆使して築き上げた“学術成果”であることを、確認しておきたいと思います。


以下に、①③④⑤⑦の各資料の内容をチェックして、さらに読み込んでみましょう。
(※その後、⑧『茶器名物図彙』を追加しました。2012年7月21日記


◆まず①の『萬寶全書』(:原文&意訳はこちらですが―、
『塗り物茶器の研究 内田篤呉著 淡交社刊』によれば、1693~1718年にかけて逐次刊行された“美術全書”で、その巻八『古今和漢諸道具見知鈔』は「茶道具全般の目利き書」であると解説されています。

内田先生は、
『見知鈔』に、鎌倉彫・根来塗・張成・楊戊などの漆工までもが収録されていることに着目し――、

『(利休百回忌をきっかけに)利休道具が再評価されたように、伝来や伝承を重視しはじめた元禄期の茶の湯において、根来や鎌倉彫、堆朱までもが、室町時代の伝説、伝承を取り込んで茶道具として位置づけられたものと思われる。』(:同書p.107より抜粋)

――と述べておられます。
これはつまり、
『利休百回忌以前までは、鎌倉彫の“茶道具”としての位置づけは、まだまだ一般的ではなかった』
ということで・・・講師としては、今後の記述が少しやりにくそうな・・・行く手に暗雲が覆いかぶさるような不安を覚えます~ほんと、どうしましょう~汗



講師の感想としては、
『目利き書』にしては、鎌倉彫を説明する文章がたいへん“頼りない感じ”がするのが印象に残ります。
「唐物に似たれども」というのは、今風に言うと「中国製っぽいけれど」ということで、
「と見ゆる」というのは、「と思われる、という感じがする」という意味なので、当該の文章は――、

『ちょっと見は中国製みたいだけれど、
中身の造りは日本製という感じがする(=日本製とも思われる)』


――という現代語訳になります。。。しかし、これではほとんど「目利き」の役に立ちそうにありません。


思うにこの文章には、
『鎌倉彫と唐物とをきちんと識別するのは、経験を積まないとけっこう難しいですよ。気をつけてね!』
という“遠回しなアドバイス”が込められているように思えます。

同じ観点から“越前彫”の解説を読むと、
「鎌倉彫と越前彫はほとんど同類だから、
両者を識別するのは、本を読んだだけでは不可能に近いですよ」

と言っているようにも思えますし、小田原彫については、
「牡丹・菊などの大胆な唐草文様を、あっさりと彫ったものですから、いくらか見分けやすいですね」
と解説しているように思えます。。。


◆ここでちょっと話が飛びますが、利休が秀吉から切腹を命じられた理由の一つとして、
『いろいろな売僧(まいす)行為をした嫌疑』というのが挙げられています。
ここに言う“売僧”とは、『新儀の茶道具に法外な値段をつけて売ること』で、
秀吉の政権下では、茶道具の既存の価値体系の序列に混乱をきたすという意味で、大いに問題視されていたようです。

“売僧行為”を処罰したということは、要するに、
『新作の道具を高価に鑑定して売るのはNG』
ということですが、
これを逆読みすると、当時の茶道具売買の世界では、そのような“詐欺的な行為”がそれなりに横行していたのかもしれません。
(もちろん、“目利き(:真贋を鑑定する)”ではなく“目明き(:真の美を見極め、創造する)”である利休に、こうした“売僧”の嫌疑をかけるのは、秀吉の大人気無い『言いがかり』としか思えませんが・・・)


このあと「実隆公記」の項でもご紹介しますが、
戦国初期の頃に“堆紅”と呼ばれた漆器には、
『木を彫刻して漆を塗ったもの』が含まれていて、
これらが中国から輸入されていた
と推測する説があり(岡田譲氏の説。灰野先生の『鎌倉彫』のP.256参照)
これがほんとうだとすると、
『中国からもたらされた堆紅(:古道具を含む)』と、
『古美粉(ふるびこ)装飾の巧みな新作の鎌倉彫』とを、目利き鑑定して識別するのは、かなり難しかったのではないかと思います。
(詳しくは、いずれ“尋陽江紋香合”の項でもお話しするつもりです。。。)


そこで――以下はあくまでも職人の“勘ぐり”ですが――、

当時の茶道具界では、
“和製の鎌倉彫”の道具類が、“唐物の堆紅”として売買される場合もあったのではないでしょうか。
いや、ひょっとすると、
“唐物”として売買されることを期待して造られた“鎌倉彫”もあったのでは・・・とも思います。

寺院僧侶が主役である“仏具愛用”のつつましやかな信仰の世界と違って、
高価な茶道具をやり取りする世界では、
情報収集と資金調達に余念の無い“武将政治家”と、戦乱収益で地位向上を狙う“豪商実業家”がその主役を担う
ようになります。

生き馬の目を抜く、疾風怒濤期の政治・軍事・経済の世界において、手軽に持ち運べる“超有価動産”である“茶道具”は、いろんなシーンを想定するにつけ、きわめて魅力的な“新生のお宝”であったろうと思います。
当時の軍人政治家と戦争商人が、
そのような“活きの良いお宝”を上手に操作して利用したいと考えたとしても、まったく不思議はない・・・

――というのが、講師の“勘ぐり”です。


鎌倉彫(=和製の堆紅)は、利休の存命中のころから、鑑定上“かなりきわどい道具”と目されていた可能性があるのではないでしょうか。。。

『萬寶全書』に見られる“鎌倉彫”の曖昧な解説文――『中国製みたいで日本製のような・・・』――は、そうした“きわどさ”の生々しい名残(なごり)であると思えてなりません。。。


③の『櫻塢漫録』(:原文&意訳はこちらは、鎌倉彫ではよく知られた資料で、歴史解説に引用される場合も多いようです。
内容的には――、
『“中国の宋文化”と“日本の仏師の伝統技法”が融合して、“鎌倉彫”が誕生した』
――という見解が込められており、その意味では“鎌倉彫の創生”が手際よく説明されています。

ただし、ここに書いてある『康圓』『陳和卿』は、それぞれ活躍した時代がいまひとつ噛み合わず、
歴史的な信憑性はありませんので、櫻塢漫録の鎌倉彫に関する記述は“伝説”と見なされています。

櫻塢漫録の記述は、江戸中期のインテリ文人が、その歴史的な知識に照らして
『宋文化+慶派仏師=鎌倉彫』
という公式を納得して受け容れていたことの証拠であり、この時期に鎌倉彫が“茶道具”として広く用いられた心理的背景を推理する上で重要かな・・・と思います。

また、『木蘭塗』については、郷家忠臣先生の『鎌倉彫』に――、
『胡粉彩色による加飾法と思われ、仏像の台座彫刻、欄間彫刻、須弥壇・前机などの腰部の彫刻、建築物の彫刻等に関連があると見られるが、遺品が残存しないので、確認して詳しく探求することができない』
――という趣旨の解説があります。

胡粉彩色はデリケートで、保存環境により残存しにくい面があるので、残念ですが仕方がないことかもしれません。。。

【参考】
陳和卿・・・
中国の宋の工人で、鋳造や建築に造詣が深かったようです。 商用で来日し、1182年に帰国しようとしたところ、重源(ちょうげん)に請われて、その2年前に兵火で損傷した東大寺の大仏さまの復興事業に参加、大仏頭部の鋳造に腕をふるいました。しかし、日本の職人との折り合いは悪く、最後には重源とも決別したそうです。1216年に源実朝の渡宋のための唐船を造りますが、失敗。(進水直後に沈没したらしいです。幕府消息筋の陰謀かもしれません。かわいそうに・・・)その後の事績は不明とのことです。

康圓・・・
1207年生れ、没年は不詳。家系については櫻塢漫録にある通りです。運慶の長男である湛慶(たんけい)のもとで、三十三間堂の中尊:千手観音坐像の造立に携わりました。代表作には神護寺の愛染明王像、文殊五尊像などがあり、現存する作品も比較的に多いらしいです。

重源・・・
1121~1206年。渡宋歴3回の高僧。東大寺再建のための大規模な勧進活動や、東大寺大仏殿落慶供養・東大寺総供養でも有名です。仏像造像に運慶・快慶等の南都仏師を起用し、建築事業には陳和卿らの宋人技術者を登用しました。慶派の総領である運慶を“法印”の位に押し上げた主要人物と考えられ、この因縁を考えると、重源は、鎌倉彫の遠縁の大恩人の一人かもしれません。

【注意】“康圓”を、“康弁”(:運慶の三男で、興福寺の天燈鬼・竜燈鬼の作者)と勘違いしている生徒さんを、しばしば見かけます。。。正しくは康圓(こうえん)ということですので、念のため補足します。


④の『茶道全蹄』(:原文&意訳はこちらは、5巻5冊の茶道全書で、その内容は、茶史・茶事・手前・茶道具等に及ぶものです。
鎌倉彫(鴛鴦の香合)に関する項を読むと、
家元の「書付」や千家伝来の茶道具の「写し(:コピー)」についての、かなり具体的な記述があり、当時すでに相当数の茶の湯愛好者が「書付」や「写し」を欲しがっていたことがうかがわれ、興味深いです。
原叟が書付をした37ヶが予約受注分、あとの13ヶが予備在庫分――というふうにも読めます。

【参考】
妙喜庵(みょうきあん)・・・
利休作の茶室といわれる『待庵』があることで有名です。京都山崎にあり、もとは連歌師の山崎宗鑑が住したといわれます。桃山時代には、利休とも交際のあった功叔(こうしゅく)という僧の所住となっており、その因縁でここに『待庵』が遺されているのかもしれません。。。
茶道辞典の『妙喜庵』の項には――、
『堂々たる寺構えではないが、茶室最高の古典を蔵するにふさわしい由緒と風格がある』
――と記されています。
鎌倉彫の木地としてこの妙喜庵の松(:松は露地の常盤木としては文句なしの主役)が使われたのは――どういう経緯かは分かりませんが――鎌倉彫にとってはたいへん光栄なことで、当時の茶人達が鎌倉彫の香合を高く評価してくれていたことの証拠かな、と思います。


⑤の『形物香合相撲』(安政2年:1855年)は、“世話人”という鎌倉彫の位置づけが面白いです。

 形物香合相撲 番付表 形物香合相撲 世話人欄拡大画像

相撲の“世話人”というのは、人脈力や知恵を貸して興行を援助する役職のことですから、
『世話人無くして、興行(=茶道具としての形物香合の隆盛)無し』とも言えるわけで、
そういう意味では何とも心憎い“位置づけ”をしてくれたものだと思います。

ちなみに、その他の“世話人”としては――、
萩、唐津、丹波、信楽、備前、九谷などの焼き物
存星、堆朱、堆黒、独楽、天河、唐物袖、青貝、
(ハシカ)彫、グリ、琉球物、キンマ、錫縁(すずぶち)などの塗り物
――が、その名を連ねています。

一般市民と手工芸文化との“距離感”は、
今よりも当時の方が“より親しみやすい状況”だったことがうかがわれ、ちょっと羨ましい気分になります。


⑦の『工藝志科』(:意訳はこちらは、
鎌倉彫の誕生を、鎌倉時代初期の“政治の動向”と“新都創建”の観点から解説しており、
「あ~、やっぱり明治維新の時代の文章だな~」と思います。
文中に、禅・仏教・仏師への言及が微塵も見られないのは、明治初年から支配的だった“廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)”の風潮を考慮してのことでしょうか。。。

鎌倉彫の創成には、“新政権”や“都市建設”という“政治・経済的な要因”以外にも、“技術的素地の充実”“中国文化の輸入・消化”“当時の日本人特有の精神性”の要因があり、これらも併せて考えて行く必要があるだろうと思います。

しかし、工藝志科の解説はシンプルで分かりやすく、鎌倉彫の歴史を手短かに解説する上で、『基本的な骨組み』になるプロットを提供してくれています。

また、越前彫・小田原彫に関する記述や、織田信長が“彫木漆器”を好まなかった趣旨の記述があり、なかなか興味深いです。

特に後者は、“尋陽江紋香合”の経緯と照らしあせて考えると、“へ~・・・”という感じがあり、著者が何故、信長についてこのような見解を持つに至ったのかを、ちょっと知りたくなります。

【参考】
廃仏毀釈・・・
『神仏分離令(明治元年:1868年)』をきっかけに盛んになった“仏教排斥運動”です。
明治政府としては神道を国教化することが目的でしたが、当時の藩当局や神職組織の政治的な思惑から、寺院・仏像の徹底的な破壊が行われた地域も多かったようです。
(:津和野・鹿児島・苗木・松本・富山・佐渡・隠岐など。)
運動の激化には、
『“寺院・僧侶の堕落”に対する一般市民の積年の憤懣が暴発した』という側面があり、結果的には、仏教側の反省と“近代的教団への脱皮”を促したとも考えられているようです。

破壊された寺院・仏像の実態を実地調査して、歴史的文化財の修復・保存を心に誓ったのが岡倉天心で、その遺志は今日の文化財保護活動に受け継がれています。

また、
今日の地場産業としての『鎌倉彫』は、
廃仏毀釈によって生活の糧を奪われた鎌倉仏師が、その造佛技術を生活調度品の制作に注ぎ込むことによって興起したものです。
逆に考えれば、
この仏教排斥運動を克服しなければ、今日のような『鎌倉彫』も存在しえなかったわけで、歴史の過酷な巡り合わせに立ち向かった、往時の鎌倉仏師の奮闘努力に思いを馳せるにつけ、その恩恵に深く感謝せずにはいられない気持ちになります。


⑧の『茶器名物図彙』(:原文&意訳はこちらは、
①の『萬寶全書』や⑦の『工藝志科』の項でお話しした「越前彫」「小田原彫」について、より詳しい解説が載っている茶道具図鑑です。
内容的にたいへん興味深いので、取り急ぎ、追記することにしました。(2012年7月21日記)

これは江戸末期に属する記録ですが、
「鎌倉彫」を基準に据えて「越前彫」と「小田原彫」を説明しています。
筆者によれば、
技巧の面から見て「鎌倉彫」と「越前彫」はほぼ互角らしく、「小田原彫」はかなり評価が低いようです。

読み方によっては――、
『孤高の禅者「道元」と戦国武将「北条早雲」との、
“人格の差”が、お膝元の工芸品の“品質の差”となって現れ出ているのだ』
――とでも言いたげなムードが、文章全体に漂っているように感じられます。

特に「小田原彫」については――、
・小田原の北条氏が、初めから意図的に「鎌倉の寺院」や「鎌倉彫」のコピーを作ろうとしたこと、
・人気の高い花鳥・牡丹の文様の香合類が多く、彫りが浅くて下手なこと、
・彫りやすい大きなサイズの香合を製造していること(:曲割(かねわり)外れの田舎茶道を揶揄?)
・近頃では「鎌倉彫」と詐称されていること、
・そんな偽作を、きちんと鑑別できない道具屋(=とりあえず売れれば良いという道具屋)が増えたこと、
――などなどをしきりにボヤいています。

注目したいのは、『日本彫物之類偽物多し』という最後の一文で、この文中のは、
中国の彫り物之類と同じように、
日本の彫り物之類(:類=似通ったもの)、(鎌倉彫を詐称する小田原彫のような)偽作が多い
という意味であると考えられ、
『中国(:唐物)の彫り物之類=彫漆器の似通ったもの』に偽物の多いことが、周知の事実として公認されていたように読めます。

『鎌倉雕』と呼ばれた茶道具に、
『あやしげな唐物』と紙一重の“きわどさ”が纏(まと)わりついていた可能性があることは、①の『萬寶全書』の項で既述しましたが、
江戸時代の茶道具マニアの間に、
『偽物の茶道具を、つかまされないように気を付けよう・・・』
という強い警戒心が働いていたことは、“今も昔も変わらないなぁ”という感じで、ちょっと微笑ましい気持ちになります。。。

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B.『実隆公記』の記述について

◆『萬寶全書』よりも古い文献資料として超重要といわれるものが、『実隆(さねたか)公記』です。
『実隆公記』は、
応仁の乱~戦国時代中葉を生きたお公家さんである三条西実隆(AD1455~1537年)の日記ですが、
その中の“禁裏への進物の控え”の記録の中に――、

堆紅盆 鎌倉物    (←1487年8月)
・盆 香合 鎌倉物   (←1508年8月)

・居盆 鎌倉物      (←1524年8月)

――という記載があり、
ここにある“鎌倉物”が、木に彫って漆で塗り上げた“今日風の鎌倉彫”なのか、それとは別の“何か”なのか、をめぐって、研究者の間で見解の相違がある模様です。

【参考】
・三条西実隆・・・(1455年4月25日~1537年10月3日) 公保の二男。
戦国期の公卿・文化人で、御土御門・後柏原天皇からの信頼が厚く、多くの公卿が経済苦から地方に下った時代に、禁中のために京都にとどまって奔走しました。
連歌師の宗祇から古今伝授や伊勢物語・源氏物語の講義を受け、「新撰菟玖波集」の編纂にも協力。
その傍ら、多くの古典を書写・校合し保存に努めました。
1506年内大臣の就任し、同年に出家。道号:尭空・逍遥院。
著書に、「源氏物語細流抄」「雪玉集(:私家集)」「再昌草(:歌日記)」「多々良問答(有職故実の解説書)」など。
当時の和漢の学の最高峰として人望が高く、堺流茶の湯の開祖である武野紹鷗の和歌の師匠でもありました。
『実隆公記』は同時代の信頼できる歴史資料として、高く評価されています。

◆灰野先生の『鎌倉彫』によれば、
論議のポイントは――文中の“堆紅(ついこう)”をどう解釈するか?――ということらしいです。

となると当然ながら、そもそも“堆紅”とは何ぞや?――という点が問題となりますが、
中国の隆慶年間(AD1567~73)に書かれた『髹飾録きゅうしょくろくや楊明という人の注記(1625年)が解説する“堆紅”は、おおよそ以下の4つの特徴・技法をそなえているようです。

①別名を『罩紅とうこうとも言い(:罩は“入れて包む・籠(こ)める”という意味)、要するに『仮彫紅』(:簡易版の堆朱?)のことである。
②木地に灰漆(:白砥の粉と漆を混ぜたサビのようなもの?)を盛り上げて、これに彫刻を施す。(←高岡の錆絵を思い出します)
漆凍(:漆に朱の顔料をたくさん練り込んで固くしたもの?)を型抜きして、器物に貼り付ける。(←琉球漆器を思い出します)
故に『仮彫紅』『罩紅』という呼び名がある。
④また、木胎彫刻のもの(:木に彫刻して漆を塗る?)もあるが、工法の巧みさにおいて、(②③とは)かなり隔たりがある。
『髹飾録』が説く“木胎彫刻”が――、
『“木製漆器の薄い塗膜”に浅い彫刻を直接に施す工法(:村上堆朱の仕上げの“毛彫り”のような感じ)』
――である可能性はゼロでしょうか。。。
ご本家の中国の研究家の方にきいてみたいような気がします。。。


これを見ると、“堆紅”という言葉に、灰漆・漆凍・木胎彫刻などの工法が相乗りしている印象があり、つかみどころが今一つはっきりしませんが、中国文献に見る『堆紅の説明』は、とりあえずこんな感じです。

【参考】『髹飾録』の当該部分の記述(A) と、楊明の注記(B)を、念のため抜き書きします。

(A) 堆紅 一名罩紅
   即假彫紅也 灰漆堆起 朱漆罩覆 故有其名 
   又有木胎彫刻者 工巧愈遠矣

(B) 有灰起刀刻者 有漆凍脱印者

※「灰漆堆起・朱漆罩覆」をさらにつっこんで注釈したのが、それぞれ「灰起刀刻・漆凍脱印」であると思われます。。。


◆一方、実隆公とほぼ同時代に、
足利義政の同朋衆であった能阿彌(のうあみ)によって著された『君台観左右帳記(くんだいかんそうちょうき)を見ますと 『唐物の堆紅』が以下のように説明されています。

色あかし。地にきうるし。ほりめに黒かさね一又は二もあり。手ふかく、花鳥をほりたるを云也。花斗(ばかり)なるもあり。

【意訳・・・色は紅い。紅い漆の下層に(あるいは文様の背景部分に?)黄漆が使われている。彫りの断面に、重ね塗りされた黒漆が一すじ、あるいは二すじ見られる。彫りが深く、花鳥の文様を彫ったものの呼称である。花だけの文様のものもある。】


『君台観左右帳記』の解説内容は、“目利き”のポイントとなる“外見上の特徴”が中心で、
中国の『髹飾録』『注記』が“工程・技法の特徴”を説くのとは、少し次元を異にする印象があります。

また同書では、上記のように『堆紅』を“手ふかく”、別項の『堆朱』を“少し手あさし”と解説しており、鑑定基準の一つとして、微妙で曖昧な“彫りの深さ”を言葉少なに採り上げています。
※『君台観左右帳記』の“堆朱”の説明――、
色あかし。是は少し手あさし。ほりめにかさねのすじもなく、あかきばかりなり。これをつい朱と云。本地同然。
【意訳・・・色は赤い。これは少し彫りが浅い。彫りの断面に漆を重ね塗りしたすじも無く、ただ赤いだけである。これを堆朱という。漆器本体(:核心部の深い層)も同様の特徴をもっている。】


個々の彫漆器の“彫りの深浅”等を比較して判定するには、経験豊かな師匠のもとで、本物の道具に接しながら“眼を肥やす”必要があることを考えると、
『君台観左右帳記』編纂の本意が、
――限られた“目利き鑑定家集団”の“秘伝的な覚え書き”を分類・整理・保存すること――
であったらしいと推察できます。

そう考えると、
実隆公の頃に日本で用いられた『堆紅』という言葉には、いわゆる“目利き用語”としての定まった“概念・定義”が付随していて、
その概念・定義には、
当時の“同朋衆一流の解釈(=日本流の解釈)”がそれなりに付加されていたのでは
・・・
と考えたくなります。。。


【参考】
『君台観左右帳記』・・・
東山文化・銀閣寺などで知られる『足利義政(足利8代将軍)』の同朋衆である『能阿彌』が、将軍家伝来の『唐物の美術品目録』を集記したもの。
能阿彌の没後5年目に当たる1476年に、能阿彌周辺の同朋衆の手によって完成されたらしいです。
増補版は能阿彌の孫の『相阿彌』(:芸阿彌の息子)によって、1511年に完成。
その内容は、中国の“唐~明代の画家の小伝・画題”、“座敷装飾の分類と図版解説”、陶磁器・彫物・硯石などの“目利き鑑定の基準”に及んでいます。
国産の“目利き書”のルーツとして、後世の“茶の湯”“生花”などに多大な影響を与えた、と言われます。

ちなみに、『君台観左右帳記』では、
『堆朱』を、剔紅(ちっこう)・堆紅・堆朱・堆漆・金糸・九連糸の6種に、
『堆黒』を、堆烏・黒金糸・桂漿・犀皮の4種に分類しているようです。


◆上記の中国・日本のデータを下敷きに、
三条西実隆が書き残した『堆紅』『鎌倉物』の意味内容について、岡田譲・郷家忠臣・荒川浩和の3氏が、それぞれ論考してみえるのですが、こみ入った内容ですので、ここでは結論のみを以下3点に要約するにとどめたいと思います。
(※興味のある方は、灰野昭郎著京都書院刊『鎌倉彫』のP.256をお読みください。) 

①3氏とも“鎌倉物”が“鎌倉産”であることについては、同意見。
②「鎌倉物=木胎漆塗りの“堆紅”=今日でいう鎌倉彫」という意見と、「必ずしもそうとは断定できない」という意見(:荒川氏の見解)に分かれる。
③「木彫漆塗り」のほかに「堆起漆塗り(:灰漆や漆凍を用いた手法)」の研究も必要。(:荒川氏の提言)


◆以下は、素人考えになりますが――、

1487年に日本の貴族である実隆公が使った“堆紅盆”という『鎌倉物の“呼び名”』と、
1570年ごろに中国で専門工人・鑑定家・マニア向けに採録されたと思われる“堆紅”という『漆芸用語』とを、同じまな板の上に乗せた場合、
両者の実質的な内容が、どの程度まで正確な等号で結ばれ得るか・・・
約80年の時間差があり、『髹飾録』の方が歴史的に若い資料であることを思うと、ちょっと疑問が残る気がします。。。

上の“疑問”をもう少し説明しますと――、
実隆公が使った“堆紅盆”という言葉の“意味・内容”を、
約80年後に中国で著された『髹飾録』の“堆紅”に関する記述
(=仮彫紅・罩紅・灰漆堆起・朱漆罩覆・木胎彫刻など)
から類推して解釈するのは、どのくらい妥当だろうか?
――ということです。

『髹飾録』が説く“堆紅”の意味と内容には――、
①“本式の彫漆”ではなく“簡易製”であること(:『仮彫紅』『罩紅』)
②モデリング~カービングの工程・技法が大別して3種類あること
(:『灰漆堆起~堆起刀刻』『朱漆罩覆~漆凍脱印』『木胎彫刻』)
――という二つの側面があるように思いますが、ここで『?』なのは、実隆公が使った“堆紅盆”という言葉に、どのくらいディープな意味・内容が盛り込まれていたか、です・・・。

想像ですが――、
実隆公は『君台観左右帳記』にあるような「唐物の“堆紅”の見た目の特徴」については詳しかったと思いますし、“鎌倉物の堆紅盆”と言った場合に①の意味合いが濃厚に漂うことも承知していただろうと思われます。
が、②のような“具体的な工程・技法の複雑さ多様さ”については、それほど深くは知らなかったのではないでしょうか。

②のような“工程・技法に関わる専門知識”は、
制作担当者である“塗師”や“仏師”“宮彫師”の世界では、陳和卿のような中国人技術者から仕入れた“直伝・口伝の専門技法”として、大切に伝承されていたかもしれません。
でも、そうした“文字によらない技法の伝承”は、ほとんどの場合、“秘伝・相伝”だったろうと思われますので、現場の工人でない“お公家さん”には、なかなか知り得ない知識情報だったのでは・・・と思います。

もっとも――、
『かりに実隆公が②について無知であっても、当時の鎌倉の工人が②の技術に精通していて、その技術を用いて“鎌倉物の堆紅”と呼ばれる彫刻漆器を造ったのあれば、その80年後に成文化された「髹飾録の堆紅の記述(=②の技術の解説)」から“実隆公の堆紅盆”の内実を類推解釈しても、まったく問題ないではないか』
――という考えは、おおいに成り立つと思います。

――となると問題の核心は、
「当時の鎌倉の工人が②の技術にどのくらい精通していて、中でも“堆紅盆”としてもっとも一般的に用いられる技術はどれだったか」
ですが・・・
これが簡単に分かるくらいなら、
最初から専門学者の“論議の的”になるはずがありませんよね。。。笑

でも、あとでお話しする『土紋』という仏像装飾の技術は、
ひょっとすると、この問題を探求する“鍵の一端”を握っているかも・・・というような感じが、この頃、なんとなくしています。

まとまりの無い話を、とりとめもなく、すみませんでした。。。


さて一方、『君台観左右帳記』にある“堆紅の解説文”は・・・、
これは、同時代の鑑定家が“唐物の堆紅”を目利きする際の“拠り所”だったろうことを思うと、当時の“目利き”としてかなりの眼識をもっていたはずの実隆公も、この知識を共有していたと考えるのが自然かな、と考えます。

しかし、
実隆公がこの唐物の『堆紅』という“目利き用語”を、『鎌倉物の工芸品』の“呼び名”とだぶらせて用いる際に、用語のもともとの概念・定義を、どのくらい厳密に(あるいは柔軟に)意識して用いたかについては、
結局のところ、『?』と答えざるをえません。

・全体に明るく鮮やかで紅い
・基調色として“黄漆”も使われている
・ところどころ層状の黒色も混じっている
・彫りが深く、花鳥や花の文様があしらわれている

――などの特徴のいくつかが、
おそらくは『鎌倉物の堆紅盆』にも当てはまったのだろうとは思われますが・・・。

しかし、
これらの外観の特徴(=目利きのチェックポイント)から、
「木を彫って漆で塗る」
という“鎌倉彫の工程様式”をただちに読み取ることは、残念ながらできません。。。


◆ここで難しい論考が出来るはずもありませんが、
実隆公が用いた“堆紅”という言葉は、
堆朱(中国で言う“剔紅てきこう、てっこう、”)でもなく、
堆黒(中国で言う“剔黒てきこくてっこく”)でもなく、
紅花緑葉(中国で言う“剔彩てきさい、てっさい”)でもない、
日本産の新規の『彫木彩漆』の工芸品(:1481年の記銘がある金蓮寺屈輪彫香合のような)を、とりあえず何と名付け、何と呼ぶか・・・
を吟味するにあたって――、

『そうそう、そういえば・・・唐物輸入の仲介業者に聞いた話では、このごろ中国では、木胎の簡易製の赤い彫刻漆器のことを、“堆紅”“罩紅”“仮彫紅”“仮剔紅”などと呼ぶんだそうな~・・・』

――ぐらいの軽いノリで、使われだした“呼び名”であるような気がします。

中でも、いちばん字づらのよい“堆紅”が、
和製の彫木彩漆の工芸品の『呼び名』として選ばれた
のではないでしょうか。。。


◆さて次に、実隆公が1487年の控えに『堆紅盆』と書いたあとで、『鎌倉物』とやや小さく但し書きをつけたのは何故か?――ですが、
これは鎌倉以外に「京都」(および「中国」?)という産地があったからではないでしょうか。

渋江二郎著『鎌倉の歴史とその美術』S.47年有隣堂刊の、p.181~182に――、

『南禅寺、金蓮寺、知恩寺などの大香合を、今日では“鎌倉彫”といっているが、その産地が鎌倉であったかどうかは不明である。おそらく京都の工人の手に成ったものだろう』

――という趣旨の記述があり、講師もたぶんその通りだろうと思うのです。。。

“鎌倉物”という但し書きは、
『京都産ではない』=『わざわざ鎌倉から取り寄せた』という覚え書きで、
禁裏への進物品としては、“御当地産ではない”という点で、より“心のこもった感じ”が伝わるものだったのだろうと思います。

◆このような進物に対する御所からのお返しとして、大永3年(1523年)に、
『張成作の圭墇(:けいしょう?堆朱・堆黒の一種で和名)の香合』
を頂戴した旨の記録が残っており、
応仁・戦国を生きた公家として、何かと財政難を抱えていたであろう実隆公が、苦しい家計の中から工面した“鎌倉産の堆紅”に対して、禁裏が手厚い返礼をしたことが推察されます。


◆『実隆公記』をめぐる文献学的な論考としては、上記の他に、池田巌著『茶の漆芸 香合』H.6年淡交社刊のp.12に、『伊達綱村茶会記』をベースに据えた興味深い洞察がありますが、やや煩瑣になると思いますので、ここでは割愛します。
(※結論だけご紹介しますと――、
『元禄期の“鎌倉物”と“鎌倉彫”は、表記が違うだけで実質的内容は同じである。
元禄14年頃(:赤穂浪士の頃)を境に“鎌倉彫”の呼称が優勢になり、一般化したらしい』
――という論証です。
蔵書する図書館が多い本なので、興味のある方はご確認ください。)


◆【※お仕舞いにどうしても気になる問題をひとつ。。。】

『髹飾録』の“堆紅”の項に見られる「灰漆」や「漆凍」とたいへん似通った技法として、鎌倉地方特有の『土紋』と呼ばれる仏像装飾技法があります。

「日本の美術 『鎌倉地方の仏像』 田中義恭著 至文堂刊 P.67」によれば、
『土紋』とは、花や葉の文様の雌型に“塑土(:地の粉を漆で練ったもの)をつめて型抜きし、表面を箔などで加飾して、仏像の衣紋に貼り付けて覆うように装飾する様式で、
鎌倉末(13世紀末ころ?)から室町時代にかけて、鎌倉地方だけに見られる特別な技法だそうです。
(作例:淨光寺阿弥陀如来造坐像、寶戒寺歓喜天立像、円覚寺伝宗庵地蔵菩薩坐像、東慶寺聖観音立像など)


日本の仏像研究家によれば、
この『土紋』のような衣紋装飾技法は中国には類例が無いそうで、
「日本の鎌倉で独自に考案された技法であろう」と考えられているようです。。。


しかし、上記の説明を読む限り、
『土紋』は、“灰漆堆起~灰起刀刻”“朱漆罩覆~漆凍脱印”と当てはまる部分が多く、
素人感覚では、髹飾録の『堆紅』の記述内容との関連性をいろいろと推理してみたくなります。。。

中国で“灰漆”“漆凍”が生まれたのと、日本で“土紋”が生まれた(:鎌倉末≒AD1300年前後?)のと、
両者の歴史的な因果関係は、どうなっているのでしょうか。。。
ちょっとミステリアスで、たいへん興味深い問題です。。。




・『文献資料①~⑧』と『実隆公記』のまとめ

◆最後に――講師自身の頭の整理のために――今回の話題の要点を、簡単にまとめまておきたいと思います。。。

①戦国初期の頃(1480年代)の文献:『実隆公記』の記述から推理すると・・・、
そのころ“鎌倉物の堆紅”と呼ばれていた彫刻漆器は、『金蓮寺屈輪彫香合(:1481年記銘)』のようなイメージの彫木漆器で、現在の『鎌倉彫』と似通った工芸品だった可能性が高いと思います。

しかし、それと同時に、
似たような感じの『京都産』・『中国産』の彫木漆器が主要都市で流通していた可能性もあり、『髹飾録の“堆起漆塗り”』の問題とあわせて、今後ますますの研究が俟たれるところです。


②江戸時代の元禄期のころから、『鎌倉物(=鎌倉産)』という呼び方が、『鎌倉彫』へと移行して行った模様です。


③江戸中期のインテリ文人の認識として、
『宋文化+慶派佛師→佛具:鎌倉彫の誕生』
――という公式が抵抗なく受け容れられていたようです。


④元禄~江戸末期の文献によれば、
彫り物漆器の“似物(:類似品)・偽物(:ニセモノ)はまずまず多かったようで、
『唐物彫漆器~鎌倉雕』
『鎌倉彫~越前彫~小田原彫』
などの目利き鑑定は、特に市井の趣味人にとって“悩みの種”だった
ようです。

写真画像が無く、文書等の情報・知識も乏しい当時の状況を思うと、こうした紛らわしさ、鑑別のしにくさは、彼らにとって“途方に暮れる難題”だったろうと思います。


『鎌倉彫』と似通った“日本製の木胎の彫刻漆器”としては、
――今日では『根来塗り(:彫り根来)』や『村上堆朱』などがよく知られていますが――、
江戸時代の茶人の間では、
『越前彫』『小田原彫』が“似物”“偽物”として取り沙汰されることが多かったようです。

文献を読む限り、三者の中では『鎌倉彫』が歴史的に最も古いものとみなされており、茶道具としての品位も、それなりに高く評価されていたようです。


⑥昔から、茶道具の世界には“似物”“偽物”という陥穽があり、特に高値(たかね)での購買に際しては、それなりの警戒心が必要だったことがうかがわれます。

こうした“似物・偽物”が横行する背景には、『茶道具』の古くからの“もう一つの横顔”として――、

・地域の権門勢家やインテリ文人の“ステイタス・シンボル”
・所有者の“審美眼の精華”&“人品の尺度”
・いざという時に高額換金しやすい“コンパクトで融通の利く投資対象”

――という、『リッチでマニアックな有価動産』の側面があったためと考えられます。
(※これをずばりと言い換えれば――、
「買い手の審美眼をおだてて投資欲を促せば、“似物・偽物”でも高値で売りつけやすい」
――ということです。)

『茶道具の世界』に付随するこのような側面は、
一廉(ひとかど)の寺僧が使い継ぐ『佛具の世界』とは、一線を画する
ところがあります。

つまるところ――、

発注者、制作者、所持・愛用者、仲介者、売買者等のそれぞれの“思惑の相違”が(=寺僧・茶人・武将・公家・豪商・仏師・職人・道具屋等々の各々の“立ち場”や“了見”の違いが)、工芸品の“注文内容・制作仕様”のみならず、“その後の所有・使用・保管・譲渡・転売の運命”をも方向づけてしまう

――ということでしょうか。。。

往時の『越前彫』『小田原彫』に明確な遺例がほとんど見当たらないのは(←郷家先生の『鎌倉彫』p.109参照)、
それらの道具が、
「一つの家系に永く有(も)ち継がれず、使い継がれず」、また「造りもいまひとつ堅牢でなく」、「次々に粗略に売り継がれ、譲り継がれて、短期間でボロボロになってしまう」・・・という、“過酷で淋しい運命”を辿ったせいかもしれません。。。




◆以上で、PART1の『鎌倉彫の文献資料』『実隆公記』を終わりたいと思いますが、
資料を読みますと、『希少な文献に“茶道具”の占める割合』がきわめて高いことが分かります。
“お茶と鎌倉彫”は、やはり切っても切れないご縁で固く結ばれているようです。。。

次回は『PART2』ということで、
文献資料の読み込みを離れて、『鎌倉彫史の概略』を時系列に沿って箇条書きで再確認し、“茶の湯”との関わりをさらに探ってみたいな、と思っています。

ある程度“分かりきった歴史の再確認”になってしまうかもしれませんが、多少は新鮮な視点も取り入れたいと思っていますので、
またよろしくお付き合いくださいませ。m(__)m
                  (2012.7.17記)


                 ――つづく――


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                          道友会の看板猫:ニンの寝起きの顔です。


・鎌倉彫の歴史概観
 ~
“茶の湯”との交点を探る~:PART2

今回は『鎌倉彫の歴史の概略』をたどりながら、室町時代末頃までの“茶の湯”との関わりを概観してみたいと思います。
※鎌倉彫の歴史文献(本文と現代意訳)、
         同じく(内容解説)もご参照ください。


 1.奈良~平安期(8世紀初葉~12世紀末葉)

  【概観】
◆奈良・平安の時代は、鎌倉彫の“技術的な基盤”が準備された時期であるといわれます。
主に仏所(※1)、塗部司(※2)、作物所(※3)のような“寺院・禁裏・宮中などの工房や役所”が中心となって、
“工人の養成”や“技の創意工夫・継承”に大きく貢献しました。

  【キーワードの解説】

(※1)・・・仏所
(ぶっしょ)
造仏・仏具制作・寺院装飾などを手がける工房のことで、
奈良時代に公的機関として運営された“造仏所”や、寺院所属の“興福寺仏所”などがあります。
当時の制作技法には、鋳金・塑像・乾漆など、様々なタイプがありましたが、“木を彫って塗装する”という点でも、仏所は当時の“技のメッカ”であったと考えられます。

(※2)・・・塗部司(ぬりべのつかさ)
奈良時代、令制で大蔵省に属し、漆塗りの施工管理を司った役所。
808年に“内匠寮(たくみりょう)”に併合されました。
※内匠寮とは・・・
「たくみづかさ」「うちのたくみのつかさ」とも呼ばれ、奈良・平安期の令制で中務省に属し、宮中の器物の管理や工匠の人事、殿舎の装飾などを司りました。
内匠寮の平安期の記録に、
「彫刻をほどこした机に、漆を塗ったものが制作された」
という記述があるため、この頃すでに“彫木塗漆の調度品”が宮中で使われていたと推測されています。

(※3)・・・作物所(つくもどころ)
平安期、宮中や院などで使う調度品の製造、彫刻、鍛冶などを司りました。作物司(つくもづかさ)とも呼ばれています。

この他にも、
木工寮(もくりょう)筥陶司(はこすえのつかさ)などの“木工・木地造り”に関係する公的工房や官営部門があり、後世の鎌倉彫の“技術的基盤の整備”を促したと考えられます。

     --------------------

【“お茶”との関連】――奈良・平安時代――

◆詳しくは『茶の伝来:PART1~2』の項で触れましたが(:関連事項はこちらから)、奈良・平安の時代は――

中国伝来の喫茶法や神仙思想・・・
陸羽の『茶経
』、玉川子盧仝
(ぎょくせんしろどう)の『茶歌』など
国家規模の殖産・開化・外交政策・・・
入唐僧の喫茶招来、嵯峨天皇の茶種栽培の奨励、遣唐使廃止など


――
の影響を受けながら、
寺院・禁裏・宮中・国府の“文化人”の間に

『団茶』『淹茶』『餅茶』と呼ばれる喫茶の風習が定着~浸透していった時代であると考えられます。

特に“寺僧”は両時代を通じて深く長く“喫茶”にかかわっており、それ以降の“喫茶の風習の隆盛”を根底から支えた観
あります。

◆「寺院・禁裏・宮中・国府の有識者層が愛好した」
という点で、お茶と彫木漆器は共通していますが、
ジャンルの異なる二つの文物が、当時の有力な“為政者層”“宗教家層”に愛好されたことは、一応チェックする必要があるかもしれません。

文物が長く愛好され“伝統”として根づいて行くためには――、

①文物の価値を高める“技術の向上”“品位の優良化”
                  (:現場従事者の創意工夫)

②文物を評価して“価値の序列体系”を築く“マニア集団の出現”
                       (:批評家の審判)

③文物のリニューアルと広域流通を促す“富裕層の支援”
                    (:資産家の後援・投資)

④文物の全国周知を実現する“一般大衆層の支持”
                (:クチコミ・マスコミでのブレイク)

――の4条件を、段階的にクリアすることが必須と考えられます。
茶の湯と鎌倉彫の種子は、その黎明期から①②③が促されやすい豊かな土壌に蒔かれており、④の“大衆化”が実現するのは時間の問題であったような気もします。
(※茶の湯は「桃山時代」に、鎌倉彫は「江戸時代」に、実質的な④の段階を迎えたと考えられます。)

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 2.鎌倉~室町期(12世紀末葉~16世紀中葉)
     ※実質的な鎌倉開幕は“1185年頃”。

  【概観】

◆鎌倉~室町期にかけての“中世”(※1)は、
平安時代から受け継がれた彫木塗漆の工法が、仏具類の量産を通じてさらに進化発展した時代でした。

◆源頼朝による開幕をきっかけに、鎌倉では“社寺造営のラッシュ状態”が発生しました。
そのような機運の高まりに応じ、中国渡来の宋風文化(※2)禅文化(:禅宗様建築)(※3)の伝統を踏まえつつ、
日本の風土に適した“彫木彩漆の寺院什器・仏具類”が制作され、
その中から、今日の“鎌倉彫”の祖型(:原初型)と考えられる歴史的な作品群(※4)が生まれました。

◆こうした新時代の仏教美術の動向を、技術的に先導したと思われるのは、造仏のために奈良から招かれた慶派の仏師(※5)たちだったと考えられています。

ここに――、
中国渡来の宋風文化・禅文化日本の慶派仏師の技術
                   ―→ 鎌倉彫の創成

――という公式が成立するわけですが、
江戸中期の『櫻塢漫録』にもおおむね同じような趣旨を匂わせる記述があり(:『櫻塢漫録』の文献資料(本文&意訳)(解説))、
古今を通じ、彫木漆器に高い関心を寄せる有識者の多かったことが窺われます。



 【キーワードの解説】

(※1)・・・“中世”とは、どんな時代だったのか?

◆どうも、かなり“生きにくい時代”だったようです。。。
研究者の統計によれば、この時代の平均寿命は24歳前後。
この数字は出生児の死亡率に大きく影響されますが、
運よく15~19歳くらいまで生き延びたとしても、残りの平均余命は16.8年だったと推定されるそうです。
(つまり、15~19歳まで生き延びた人の平均寿命でも、長めに見積もって35.8歳ということになります。)
これは、我が国の歴史上、縄文~古墳時代に次ぐ短命さです。
(※ちなみに江戸時代後期~明治大正期の平均寿命はだいたい40~45歳くらいだそうで、 こんな数字を見ると、現代の日本人の生存環境がいかに恵まれているかを感謝せずにはいられなくなります。)

◆学生時代に習った教科書には――、

『中世は、二毛作によって農業生産力が向上し、そのおかげで貨幣経済が発達し、そのまたおかげで商業や手工業も活況を呈し、社会全体がエネルギッシュに躍動しはじめた時代である』

――という趣旨のことが書いてありましたが、どうもこの見解には“楽観的偏向”があるようで、最近読み始めた 『増補 中世寺院と民衆』(:井原今朝雄著 臨川書店刊) という本には――、

『中世社会の特質は第一に、飢饉・疫病・戦争による死者が圧倒的多く、生存のための条件が極めて厳しく、日常生活が絶えず無数の死者と隣り合わせであったことである』(P.17 冒頭)

――と書かれています。
井原今朝雄さん(:国立歴史民俗博物館、総合研究大学院大学教授)の著書は、あまたの古文書資料を精確公正に読み込んだ研究成果が結実したもので、歴史ロマン的な“想像”による恣意的な脚色が無く、学術的信頼性がきわめて高い印象があります。茶道史だけでなく、中世史においても、“学術的証明”の見地から既存史観の見直しが進みつつあるようです。

以前から講師は――、
『教科書が説くような“エネルギッシュな躍動の時代”に、何故、西行・長明・兼好のような人物が出現して、“生死無常(しょうじむじょう)”を諦観するような歴史的傑作を書き残したのか?』
――という疑問をもっていましたが、井原さんの著書を読むと、このあたりの“因果関係”がすんなり腑に落ちて、たいへん有難かったです。
図書館にも蔵書があるかもしれませんので、興味のある方は、是非ご一読ください。

◆『“中世”と呼ばれる“鎌倉彫の創成~成育期”は、
飢饉・疫病・戦乱が恒常化した“明日をも知れぬ生死無常の時代”で、身分の上下を問わず、かなり“生きにくい時代”であった』
――ということを、まずは押さえておきたいと思います。



 (※2)・・・宋風文化とは?

◆まだ勉強中ですが、これまで調べた範囲でお話しすると、
“宋”は、紀元960~1279年にわたって存続した中国の王朝で、1127年に“金(:きん。宋を脅かした北方遊牧民族の一つ)”の侵入で滅んだ“北宋”と、その後、金の南進を阻んで、最後にモンゴル帝国のフビライ=ハンに滅ぼされるまで続いた“南宋”とに分かれるようです。

宋代の治世の特徴を項目別に列挙して要約すると――、

・文治政治・・・
群雄武人の“分裂割拠状態”を収拾して、国家統一を果たした。“科挙(:当時の上級国家公務員試験のようなもの)”による人材登用制を採用し、富裕な新興地主・自作農・都市民の有力者を官僚層に吸収した。

・中央集権・・・
皇帝を頂点とする君主独裁制を強化した。

・専守防衛・・・
北方遊牧民族(:遼・西夏・金・モンゴル帝国など)には守勢を保ったため、弱兵傾向が強く、歴代統一王朝のうちで領土は最小。(:平和主義的な防衛策を採用した。)

・文化繁栄(:特に南宋で)・・・
農業・手工業の発達→内外貿易の拡大→都市経済の振興→官僚・庶民の学芸文化が繁栄。
※宋文化の特徴:国粋的、庶民的、内省的で、歴史叙述、古文復興、漢詩文、雑劇、小説、絵画などが栄えた。
宋代には、青白磁・彫漆などの工芸品も高度に発達した。
(一代前の“唐文化”は、国際的・貴族的→日本の奈良・平安の文化の傾向に影響。)

・宋学(=朱子学・朱憙学)の大成と興隆・・・
儒・仏・道の三教を調和融合性善説を主張。主知的、理想主義的。 新しい政治・社会体制の理想像を思想面で教導し、その後に続く封建社会の精神的な支柱となった。
※その所説の一端:
自然宇宙の理法に則って、倫理的に正しく生きよう』(:性理学)
『儒教の学問系統を尊重し、四書の儒教精神を現実社会に実現しよう』(:道学)

――といった感じですが、
このような中央集権的、文治的、平和的な宋代の文化(=都市経済が生み出した高度な文物)は、中世の渡来僧・渡来工匠・留学僧・私貿易商人などによって我が国にもたらされ、当時の日本の有識者たちの“注目の的”となったことと思われます。

◆この時代、特に宋学が日本の五山の禅僧に及ぼした影響は絶大で、中世の五山僧は、坐禅そっちのけで宋学の探求や漢詩文の創作(:五山文学)に耽溺した模様です。
【参考】
『五山』とは・・・
中国の「南宋」の制度を受け継いだ、日本の禅宗寺院の寺格のこと。最初は、鎌倉幕府によって鎌倉中心の五山が定められましたが、建武新政権はこれを改めて、京都の“南禅寺・大徳寺・建仁寺・東福寺”などを加え、さらに室町幕府による二度の改編(1342年と1386年)を経て、その後の五山十刹(ござんじっさつ)の基準が確立しました。
京都・鎌倉の五山は、次の通りです。
京都五山:天竜寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺
      (※南禅寺の寺格は五山よりも上位。)
鎌倉五山:建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺

建武の時、南禅寺と並んで第一位の寺格だった「大徳寺」は、足利尊氏に冷遇されて五山からも外され、十刹(じっさつ)の第九位まで転落。ついに、1431年十刹の地位を放棄し、林下(りんげ)と呼ばれる在野の禅寺となりました。
その後、1474年に一休宋純が住持となったころから寺勢は再興し、戦国期にはその独特の禅風をしたって、戦国諸侯をはじめ、連歌師の宗長・智蘊・宗鑑、能の金春禅竹、茶の湯の村田珠光など、多くの芸道修行の参禅者が大徳寺に集まるようになりました。

『五山文学』とは・・・
南北朝~室町中期を最盛期とする京都五山の禅僧による漢文学のことで、中世文化形成に重要な役割を果しました
南宋の一山一寧(いっさんいちねい:鎌倉末頃に来朝)が、中国禅林の文学趣味を日本に伝え、その後、来朝した竺仙梵遷(じくせんぼんせん:元の古林清茂(くりんせいも)の弟子)や、竜山徳見・中巌円月(ちゅうがんえんげつ:徳見とともに古林に師事して帰朝)などを中心に、日本風の新たな漢詩文が誕生しました。 
京都五山は、上記以外にも、
虎関師錬(こかんしれん)雪村友梅(せっそんゆうばい)義堂周信(ぎどうしゅうしん)絶海中津(ぜっかいちゅうしん)などを輩出し、漢詩文の創作はもとより、中国古典や宋・元文学の講究にも優れた業績を残しました。
徳川政権の思想的基盤を固めた藤原惺窩(せいか)・林羅山なども、この伝統を受け継ぐ五山出身の儒学者でした。

◆“性善説”を説く宋学は、“倫理・道徳”の問題を、“自然宇宙の理法”に照らして解き明かし、古典的な儒教精神を実社会に再興しようとした点で、“主知主義”と“理想主義”を併せ持っていましたが、こうした明るく清い心意気や、“求道の法悦”を謳い上げる漢詩文の絶妙な表現が、日本の五山僧やその周辺の有識者にとっては、たまらなく魅力的だったのだろうと思います。

やがて、彼らの耽溺傾向はいよいよ深まり、ついには、
「宋学や漢詩文を極めることと、禅を極めることは、本質的に“一如”であって矛盾しないのだ」
と主張するようになったそうです。
研究者によれば、これはたいへん象徴的な出来事で、
『芸道と禅との一味性(:例えば、歌禅一味、茶禅一味、能禅一味、剣禅一味、弓禅一味など)』
を、後世の芸道者が模索追求する発端になったのでは・・・と考えられているようです。(:「茶禅一味」芳賀幸一郎口述。要点略記)

“中世の禅僧”は、“彫漆器”“喫茶”と“鎌倉彫”とをつなぐ“架け橋”のようなキー・マンで、この「鎌倉彫と茶道」のコーナーでも、今後の活躍が期待される存在です。



 (※3)・・・禅文化(:禅宗様建築)とは?
            (:『禅・仏教』の関連事項はこちらから)

◆“平安時代→鎌倉・室町時代”という時代の“変化”において、もっとも目覚ましいは、政治の実権が“貴族”から“武士”に移ったことだと思われます。

しかし、この“中世”という時代は、武士にとっては、たいへんストレスフルな状況が続いた時代でした。

いつ終わるとも知れない戦乱の頻発、
親子・兄弟・血縁者・地縁者といえども、封建的な利害をめぐって敵対せねばならぬ悲しみ、
白刃の下、肉弾戦で命のやり取りをする血生臭い戦闘体験の繰り返し・・・運よく戦死を免れたとしても“殺すか殺されるか”の極限状況を味わった“PTSD”は、なかなか癒されにくかったろうと想像します。

武士も煎じ詰めれば生身の人間ですから、ストレスに立ち向かう“心の支え”が必要でした。
その有事の際の心の支えとして、彼らが選んだのが“禅宗の教え”だったと考えられます。

臨済宗の蘭渓道隆・無学祖元の弟子で、蒙古襲来時に活躍した執権・北条時宗のように、
“胆力”“平常心”を練り、鍛え、養うことが、当時の武士にとっては、もっとも切実な課題だったのではないかと思います。

※胆力・・・
外的・肉体的な状況が変化しても、内心の静けさを保つことができる“身心統御の能力”のこと。江戸後期の史学者である頼山陽(らいさんよう)は、“元寇”にあたっての時宗の冷静沈着さに感嘆して、「相模太郎胆甕の如し」(:北条時宗は満水の甕(かめ)のように胆力がみなぎっている)と表現しました。

もっとも、当時の武士はけっこう合理的で、
病気・災厄・呪詛には、天台・真言などの密教系の「祈祷・調伏」で対抗し、死後の冥福を祈る時は、浄土系の称名念仏「南無阿弥陀仏」を唱えるなどして、その時々の目的によって、各宗派の功徳を上手に使い分けていた傾向があるようです。
戦場に臨む際には、禅の“胆力”がもっとも有効だと判断したのでしょう。

◆臨戦時の心の支えとして、武士が選んだ“禅宗”は、
日常生活の節度・作法・規範をたいへん重んじる教えでもありました。
その厳格さ・詳細さの一端は、“清規(しんぎ)”と呼ばれる生活規範書にうかがうことができますが、こうした“軍律”を連想させるような徹底した“規則正しさ”も、戦場での統一行動を重んじる当時の武士にとっては、たいへん好ましい要素であったと思います。

◆中国の宋代に“禅”の影響を受けつつ繁栄した諸文化は、政治・経済・学問・倫理・芸術の幅広い分野に及び、いわゆる“禅文化”とよばれる巨大なカテゴリーを生み出しますが、このような“禅”の万事併吞の傾向は、日本においても同様に引き継がれ、中世の五山周辺には、詩文、書芸、絵画、造庭、音曲、能楽、茶の湯、立花(華道)などの広範な芸道文化が開花することになります。

これらの諸芸道は、例外なく“禅・仏教の修行と悟り”に通じる『稽古の階梯と奥義』をもっており、この時代に、“禅の精神”を共通地盤として、我が国を代表する伝統的な美術工芸・技芸・芸能の文化が、一気に成熟結実した観があります。

◆様々な芸道文化が咲き乱れる環境のもとで、
胎動期の鎌倉彫もいろいろな形で“禅”の影響を受けますが、
中でも特筆すべきと思われるのが“禅宗様建築”です。

“禅宗様建築”は、日本の禅宗寺院に用いられた建築様式で、
中国の宋代の禅宗伝統の建築様式を踏まえて日本国内でつくり上げられた、と考えられています。
かつては“唐様(からよう)”と呼ばれていましたが、
“宋”由来の建築様式を“唐様”と表現する紛らわしさのせいか、
最近は“禅宗様”と呼ばれます。

“禅宗様”は、1202年建立の京都・建仁寺で初めて用いられ、
1253年供養の鎌倉・建長寺で基本様式が確立したと考えられているようですが、火災などのせいで今日に伝わる13世紀の遺構が無いため、伝来当初の形式がはっきりしません。
現存する14~15世紀の遺構は、かなり“日本化が進んだ作風”であると考えられているようです。

その“特徴”“主な遺構”を、『岩波仏教辞典』から抄述して列記しますと――、

・貫(ぬき)を用いる(=長押(なげし)を打たない) ・詰組(つめぐみ)を柱の間に設ける ・柱には礎盤(そばん)、粽(ちまき)がある   ・垂木(たるき)が放射状である ・虹梁(こうりょう)の上に大瓶束(たいへいづか)を立てる  ・天井周囲は化粧屋根裏、天井中央は鏡天井 ・窓は花頭窓(かとうまど)、扉は桟唐戸(さんからと)  ・随所に木鼻(きばな)、拳鼻(こぶしばな)を設けるなど、細部の装飾性が高い

・主な遺構・・・
永保寺開山堂(14世紀中頃)、正福寺地蔵堂(1407年)、円覚寺舎利殿(15世紀初め)など。

――と説明されています。(※形状や外観について興味のある方は、ネット画像で検索してみて下さいね。)

◆以上のような“禅宗様建築”を造営して、円満に機能させるには、中国渡来の建築方式を理解して日本風にアレンジする高度な“建築技術”のほかに、その建造物にふさわしい仏像・仏具類・寺院什器・建築彫刻を制作する“彫刻技術”が必要でした。

渋江二郎先生は、著書『鎌倉彫の歴史と美術:有隣堂刊』の中で、
“鎌倉彫の祖型”と考えられる“須弥壇・前机・磐子台”などを『建築の一部とも見るべき』と形容し、そのような“建築彫刻”の歴史的作例の流れとして――、
『蛙股・木鼻のくり形(藤原~鎌倉後期)→欄間彫刻(室町末~江戸期)→竜などの柱彫刻(江戸期)』
――を挙げて解説しておられます。(同書P.169参照)

社寺造営の工匠である“宮大工(:堂宮師、堂宮大工)”の仕事の中で、とくに“建築付属の彫刻類”を制作する仕事を“宮彫(みやぼり)”と呼びますが、
『鎌倉彫の祖型作品の制作には、“宮彫”の要素も部分関与していたのでは?』
という慎重な示唆は、たいへん興味深く、刺激的です。

ともあれ、創成期の鎌倉彫の作者・使用者が、
鎌倉彫作品の住み家である“寺院環境”を強く意識した
であろうことは間違いなく、“禅宗様建築のたたずまい”が当初の鎌倉彫作品に及ぼした影響力は、きわめて強大であったと思われれます。

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(※4)“鎌倉彫”の祖型(:原初型)と考えられる歴史的な作品例とは?

◆作例の詳細は――、

・『鎌倉彫』 灰野昭郎著 京都書院刊
・『鎌倉彫名品展――古典から近代鎌倉彫まで――』 神奈川県立歴史博物館刊
・『日本の漆芸6 螺鈿 鎌倉彫 沈金』中央公論社刊

――などの書籍の解説をご参照いただくことにして、
ここでは――、

ア.『須弥壇と前机』、イ.『大香合』、ウ.『笈』、
エ.『鉦架』、オ.『会所・書院の飾り物類』

――の5つのジャンル別に、おおまかな要点をお話ししてみたいと思います。

ア.『須弥壇(しゅみだん)と前机(まえづくえ)
 建長寺須弥壇、建長寺前机・・・・・・(鎌倉~室町時代)
 円覚寺前机・・・・・・・・・・・(室町時代、1428年刻銘)

◆須弥壇は、寺院の堂内に設置して仏像を安置する“壇”のことで、前机は、仏像の前に置いて供養具を載せる“脚(あし)付きの台”の呼び名です。

建長寺の須弥壇は、もともとは食堂に置かれてあったものだそうですが、創建当初からの遺構として、禅宗様・宋朝様式の最古の作例と見なされています。腰間に“獅子牡丹”、柱の上部に“蓮華座”、勾欄の直下に”蓮華葉”の彫刻があり、特に腰間の“獅子牡丹”文様の浮き彫りは、鎌倉彫の祖型・原初型として有名です。

◆一般に、須弥壇や前机は、奈良から招かれた“慶派の仏師たち”が造ったと考えられていますが、(:講師も訓練校時代に大筋としてそのように教わった記憶があります)、渋江先生が慎重に示唆された“宮大工の部分関与”も、否定できないように思われます。

“宮彫”が欄間の透かし彫りなどに本格的に見られるようになるのは織豊時代以降らしいですが、それ以前の宮大工にも、蛙股や木鼻の刳り形(くりがた)などを彫る“造形力”が求められたはずで、そう考えると、仏師と宮大工との合同協議のもとで、
須弥壇の柱・勾欄を含む“基本構造体”を宮大工が担当し、
“彫刻部分”を仏師が担当する
というような分業体制が敷かれた可能性もあるかもしれません。

寺院の堂内を荘厳装飾する際に、“仏師”と“宮大工”がどのように職掌を分担していたか・・・
・・・これは容易に答えの出せる問題ではなさそうですが、
完成した堂内の寸法・造作・明りの取り具合などの詳細を、
前もって明確にイメージできるのは“宮大工”
だったでしょうから、“仏師”が仏像・仏具・什器・荘厳具類を制作するに当たって、宮大工と緊密なコンタクトを取りながら互いのイメージを共有し合おうとしたであろうことは、ほぼ間違いないと思われます。

【参考】仏具荘厳(しょうごん)具・供養具・梵音具(ぼんのんぐ)・僧具・密教法具に大別され、その内容は以下の通りです。
・荘厳具・・・仏を供養(敬意・感謝を捧げること)するために、
       僧・施主が仏前で用いる道具。
       須弥壇
(しゅみだん)・前机(まえづくえ)
       天蓋(てんがい)・幢幡(とうばん)・瓔珞(ようらく)など。
・供養具(以下の4種類があります)
 灯供養具・・・灯台、燭台、灯籠(とうろう)など
 華供養具・・・華籠(けこ)、華鬘(けまん)、華甁(けびょう)など
 香供養具・・・据香炉(すえこうろ)、柄香炉(えこうろ)
         釣香炉(つりこうろ)、香合など
 飲食供養具・・・鉢・椀・水甁(すいびょう)など
・梵音具・・・梵鐘、鰐口(わにぐち)、謦(けい)、鉦鼓(しょうこ)
        雲版(うんばん)、鐃(にょう)、伏鉦(ふせがね)
        銅鑼(どら)、木魚など
・僧具・・・・袈裟(けさ)、横被(おうひ)、僧祇支(そうぎし)
       裙(くん)、直綴(じきとつ)、帽子(もうす)、沓(くつ)
       などの衣服関係のもの
       数珠、錫杖、如意、払子(ほっす)、塵尾(しゅび)
       据箱(すえばこ)、戒体箱(かいたいばこ)
       持蓮華(じれんげ)などの持物(じもつ)関係のもの
・密教法具・・・金剛杵(こんごうしょ)、独鈷杵(とっこしょ)
        金剛鈴(こんごうれい)、金剛盤、羯磨(かつま)
        輪宝(りんぽう)、六器(ろっき)、華甁(けびょう)など

◆一般に宮大工は“渡り大工”とも呼ばれ、大規模な社寺造営に応じる形で現地に集結し、落成するとまた次の現場に移動して行く場合が多かったようですが、(当初の鎌倉では、浅草の大工がたくさん集まったようです。そのまま定住した場合も多かったのではないかと思います・・・)、この時代に、宮大工たちと奈良仏師たちが、鎌倉でどんなふうに対面し、どんなふうに情報を交換し、どんなふうに協力し合ったかを想像するのは、とても楽しく、また興味深いことだと思います。


  イ.『大香合』
金蓮寺(時宗)屈輪
(ぐり)文大香合(室町時代、1481年記銘)
知恩寺(浄土宗)屈輪文大香合(室町時代、1563~4年記銘)
円覚寺(臨済宗)屈輪文大香合(室町時代、1565年記銘)
南禅寺(臨済宗)牡丹文大香合(室町時代、15世紀)
泉涌寺(真言宗)屈輪文大香合(室町時代、15世紀)
来迎寺(浄土宗)鳳凰文大香合(室町時代)
鶴岡八幡宮菊唐草文大香合(室町~桃山時代


◆“大香合”とは、直径7寸~1尺(21~30cm)程度の円形・大型の香合で、寺院の仏殿で法会などを営むにあたって、抹香を入れる什器として用いられる供養具です。焼香に参加する大勢の人目に触れ、その寺院の品格を公に示す、という意味で、布教の上でも重要な仏具であったと考えられます。

◆現存する古典的な大香合の作品例を見ますと――、

・デザインの面では、
中国からもたらされた『彫漆(:厚く塗り重ねた漆の塗膜層に彫刻を施して制作された漆器)』の意匠文様を採用。
・制作工程の面では、
『木に彫刻して、漆を塗る(:下地漆→黒中塗り漆→朱漆で上塗り)』という日本在来の彫木塗漆の技法を採用。

――という特徴が観察され、
特に、寺院所蔵の大~中型の香合類に多く見られる『屈輪(ぐり)文様』では、かなり意識的に中国伝来の彫漆の意匠を写していることが注目されています。

◆以前、このページの『鎌倉彫と禅・仏教』の末尾のところで、そのような傾向をもつ古典的作例として「金蓮寺・知恩寺・円覚寺の屈輪文大香合」を取り上げ、自分なりの疑問点や私見を述べさせていただきましたが(:関連事項はこちら)、
今回は、少し視点を変えて――、

中国渡来の伝統意匠である“屈輪(ぐり)文様”が、宗派を超えて踏襲継承されたのは何故か?
中国産の“彫漆器”ではなく、和様の“彫木漆器”が、宗派を超えて永く愛用されたのは何故か?(=なぜ、日本では、“木に彫刻して漆を塗る”という造り方が選ばれたのか?)

――という問題について、いま少し別の角度から考えてみたいと思います。

【注1】『鎌倉彫と禅・仏教』の末尾で既述した“私見”と同様に、『大香合』に関するここから先の記述は、講師の思い付きによる“推測”ですので・・・まずまずの“整合性”はあると思いますが・・・学術的な証拠資料を集めての“論証”ではありません。
どなたか奇特な方が充分な証拠集めをして、この思い付きを上手く論証して下されば嬉しい限りですが、――まあ、それほど濃い内容にはならないだろうと思いますので――、“こんな見方もあるかな~”くらいの軽いお気持ちで楽しんでいただければ、と思います。

【注2】ちなみに、上記①の「?」については――既読の関連書籍では――あまり問題視されていない模様です。
また、上記②の「?」に対する従来の説明は――、

a.中国産の彫漆器はたいへん“希少”で“高価”なので、なかなか入手しにくい。
b.だからといって、彫漆器を日本で制作するのは“手間”と“費用”の面で負担が大き過ぎる。
上記a&bの理由から(=要するに「金銭と時間と労力」を“節約”するために)、中国産彫漆器の「模倣品」「代替品」としての“彫木漆器=鎌倉彫”が、日本在来の“彫木塗漆”の工法を駆使して制作された。

――と、要約できるかと思います。。。

まず①なぜ、中国渡来の“屈輪文様”が各宗派で踏襲継承されたのか?ですが――、

屈輪文様には――、
ワラビ系の植物が唐草状に捻転する様子を抽象化したと思われるもの(:いわゆる“唐草型”)、
・飛雲・波頭・波紋・流水紋などを単純化・意匠化したと思われれるもの(:いわゆる“眼鏡型・ハート型”)
――などがあり、彫漆器や鎌倉彫の場合、いずれも幾何学系のリズミカルなシンメトリー図案(:線対称型または点対称型)を、器物の全面に総彫りする形式で作品化されています。
(※大香合では屈輪のほかに、牡丹や鳳凰などを意匠化してあしらう場合も多いですが、『余白の少ない総彫りを器物の全面に施す』という点では、いずれも共通しています。

そもそも、幾何学系の連続文様を透き間なくギッシリ詰め込む傾向は、世界各地の考古学・人類学・民俗学などの採取資料にも数多く認められ、大切なものを魔物の邪眼からカムフラージュするという意味で、いずれも呪術的・宗教的な“魔除けの効果”を狙ったものと考えられているようです。
(※『悪魔は、無限に連続するリズミカルな“規則正しさ”を破壊できない』という民間信仰も、世界各地にあるようです。)

アジアには、“悪魔の邪眼”をさえぎるために、余白の少ない“充填文様”の衣服・衝立(ついたて)・暖簾(のれん)・敷き物を多用する文化圏がありますすし、
日本にも、例えば、「耳無し芳一」が平家の亡霊から身を守るために全身にすき間なく経文を書き付けたり、
日光東照宮(:徳川家の霊廟)のような社寺の門扉周辺に過剰な装飾彫刻がびっしりと施されていたり、
大事な財物を持ち運ぶ大風呂敷の全面に“唐草文様”が染めつけてあったり・・・
・・・「日本史広辞典:山川出版社刊」によれば、全国各地の習俗としての“入れ墨”も、「魔除け・豊漁・成人儀礼などの呪術的な意味を伴う」と解説されていますので、博徒・鳶職人が好む倶梨伽羅紋紋(くりからもんもん)の文様もまた、もとをただせば“魔除け・招福のおまじない”から生まれた意匠かもしれません。

◆『かりに、屈輪文様に“魔除け”や“招福”の意味があったとして、抹香って、それほど大切なものなの?』
と訊かれそうですが、しかし、“香は仏の食べ物”と素朴に信じられていた時代に(※関連事項はこちら)、大勢の人が一堂に集まって同じ空気を吸う共同飲食的な状況で(※関連事項はこちら)、“魔”に汚染された抹香が焼香されて堂内に充満するという事態は、現代風に考えると、仏様に“毒ガス”を献じるだけでなく、自分もまた半強制的に毒ガスを吸わされることになるわけで、当事者としては断固として忌避すべき事態だったのではないでしょうか。

◆中国の古代~唐・宋代に『連続的な幾何学文様には魔除け効果がある』という俗信があって、そういう俗信を素朴に信じている一般庶民に布教しようとする場合、『抹香を屈輪文様で包んで “魔”から守る』という心配りは、是非とも必要だったでしょうし、ひょっとすると当時の僧侶の中にも、そのような俗信を本気で信じる人がいたかもしれません。
(こういう俗信は、現代の葬式参列者が 帰宅時に塩蒔きをする“お清め”の感覚と通じ合うものがありますが、科学的な思考・情報・知見に乏しい中国宋代の庶民にとって、“魔除け”の重要性は 今とは比べようもないほど強烈だったろうと思います。)

◆また、禅宗では“清規(しんぎ)”と呼ばれる生活規範が重んじられ、その規範を代々継承しますので、“焼香”に使う香種や 香合・香炉などの体裁にも、“清規”またはそれに準じる“範例”という形で、きちんとした取り決めがあったのでは・・・と思います。
その取り決めが伝来当初の日本でも忠実に踏襲されたのであれば、少なくも当初の禅宗寺院では、大香合の意匠・寸法などの好き勝手な変更は、基本的に許されないことだったのではないでしょうか。

◆日本の中世において、“呪術”や“神霊”の支配力はなかなか強大で、悪霊・怨霊・疫病神・祟り神・生き霊・怨敵の呪詛などが、庶民の日々の心理領域を跋扈(ばっこ)していました。

特に恐れられたのが、志なかばで非業の死を遂げたカリスマ的大人物の怨霊で、崇徳天皇・菅原道真・平将門などを祀る神社が日本全国に分布しているのは、こうした怨霊がいかに恐れられ、その鎮魂の必要がいかに切実であったかの傍証であると考えられます。

【余談】
中世の日本人の大半は、
眼に見えない“魔のエネルギー”から身を守る本能に衝(つ)き動かされていたので、伝統的な“お清め・お祓い・加持祈祷・調伏”を司る権社・実社密教系の寺院は、ずいぶん繁盛しただろうと思います。
こうした風潮の中で、法然・親鸞・日蓮・一遍などの鎌倉新仏教の担い手たちは、怨霊・鬼神・魔性の存在を否定する合理的な革新思想を打ちだしますが、これは旧勢力の利害と真っ向から衝突することになり、結果的に、新仏教の教祖たちは茨の道を歩むことになります。

平安中期から「神と仏は本来一如である」と説く“本地垂迹(ほんじすいじゃく)思想”が本格化しましたが、この思想に支えられて発展した権社・実社・密教系寺院にとって、“怨霊・鬼神・魔性”の存在を否定する新仏教の主張は、単に加持祈祷・調伏・神事・道術を否定するだけでなく、旧仏教勢力の思想的信条や、神事を優先する中世国家儀礼の本質を厳しく批判論難する内容をはらんでいました。(『増補 中世人と民衆』p.291参照)

この事態を逆に見れば、
『魔のエネルギーを防ぎ、除き、解消すること』こそが、旧宗教勢力の宗教上の最重要課題だったわけで、飢饉・疫病・戦乱が恒常化していた“中世”において、一般民衆に常識的に信じられていた“魔”の凶悪さが、想像を絶するスケールであったことがうかがわれます。

(※ちなみに、教祖没後の鎌倉新仏教は、徐々に一般民衆の俗信を部分容認する方向に軟化し、“神・霊・魔”を意識した呪術的な要素を、法会などの宗教儀礼の中に少しずつ盛り込んで行くようになります。

日本の一般民衆の日常心理において、“怨霊・鬼神・魔性”に対する恐怖心が今日のように希薄になったのは、
明治維新の廃仏稀釈運動(:天台・真言系の多くの神宮寺が民衆に破壊されて廃絶)と、
その後の公的義務教育の普及(:特に第二次大戦後に定着した“科学的因果律”の常識化)とが、
段階的に作用してくれたおかげであると考えられます。)

◆以上、屈輪文様が中世の日本で受け容れられ、踏襲された理由を、“魔除け(:招福)の俗信”“禅宗の清規~範例”という視点から考えてみました。

中世人の一般的な心情を、民間の俗信の方面から推し量るのは困難なことですが、屈輪文様にカムフラージュの効果が期待されたとすれば、意匠の全てが文様の構成要素で、余白らしい余白が全く見られない屈輪文様は、他の牡丹文や鳳凰文と比べても、最強の隠蔽能力を発揮する意匠だっただろうと思います。

中国伝来の屈輪文様の、あの一種独特な「力強さ・頼もしさ」が、法会に集まった当時の人々から、格別の評価と信頼を獲得したのではないか・・・
・・・そんな想像をしています。

最後に、中世の鎌倉彫の大香合以外にも、
弘法様ゆかりの『宝相華迦陵頻伽蒔絵冊子箱』や
平安後期の平家納経の装飾経巻の唐草文様、平等院鳳凰堂内の繧繝(うんげん)彩色などなど、
“魔除け≒招福”を意識したと思われる“唐草系の充填文様”や“幾何学系の連続文様”の作例が、早くからたくさん存在していることを付記したいと思います。


次に②和様の“彫木漆器”が各宗派で永く愛用されたのは何故か?(=なぜ、日本では、“木に彫刻して漆を塗る”という造り方が選ばれたのか?)――ですが、
さしあたり思いつく理由3点を、以下のA.B.C.に箇条書きにしてみます。

A.『屈輪文大香合』について既述した事柄の要約になりますが――、
長年の愛用を通じて“味わい”が増して行く経年老成(:経年変化)の様子を肯定的に鑑賞することで、仏教の三宝印の一つである「諸行無常」の教えを“無言布教”しようとした。
袖香合などの“愛玩漆器”は、そのプライベートな実践例かも知れません。(関連事項はこちら

B.当時の中国渡来の彫漆器の中には、比較的に短期間の使用でひび割れ・剝落などの不具合が出る粗製品が混ざっていた。

彫漆器は唐代から制作されていたようですが、制作者が短気や欲心を起こして、“混ぜ物入りの漆”を使うと、短期間で劣化して、割れ・剝がれが発生し易くなると聞いたことがあります。
漆に“混ぜ物”を入れると、塗り1回あたりの塗膜の厚みが増すので、結果的に「塗りの回数」と「漆の代金」を節約できますが、その反面、塗膜は劣化しやすくなり、長年の使用・鑑賞に耐えにくくなるそうです。

その当時、彫漆器のアタリ・ハズレ(=混ぜ物入りか否か)は、見た目では判断できず、長期保管して、劣化の進行具合を気長に観察するしか見極めようがなかっただろうと思います。

宗派のメッカである中国から舶来した、“容易に劣化しないはず”の彫漆器に“割れ”や“剥がれ”などの不具合が生じることは、寺院にとって“あるまじき不面目”だったはずですし、不具合のせいで大香合の品位が著しく低下した場合、寺院の法会の“顔”として、人前に出せなくなる危険性もあったのでは、と思います。 

その点、“経年変化”が温かい眼差しで容認される傾向の強い“根来(ねごろ)塗り系の彫木漆器”は、法会の“顔”としても、永く使い継ぐ什器としても、より相応しいものだったのはないでしょうか。(:関連記事

当時、なにかと発生率の高かった“火災による焼失”などをきっかけに、“彫漆器 → 彫木漆器”という「切り換え」に踏み切った寺院も、相当数あったのでは・・・と、ひそかに想像しています。


C.もともと日本人には、“樹木”に対する特別な信仰心があった。

『御神木』という言葉がありますが、祖先崇拝や氏神信仰を奉じていた当時の日本人にとって、土地の聖域に生えている特徴的な樹木は、神霊の“依代(よりしろ=神がよりつくもの)”として、古くから篤い信心の対象になっていました。(“依代”には、樹木の他に“山岳・岩石”などがあります。)

日本では、唐招提寺での造仏(奈良時代後半)をきっかけに、一本の木材から像を彫り出す“一木彫(いちぼくちょう)”が盛んになりますが、「神」と通じ合う“一本の霊木”から「仏像」を彫り出すという“一木彫”の造像法は、平安中期から本格化する本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ=“神と仏は本来一如”という思想)を支える土台になったのではないかと思います。

古来、仏教を布教するにあたって、土地土地の“神様”とうまく折り合いをつけることは、重要な課題であったと思いますが、“一木彫”は、この課題解決に大きな貢献を果たしたのではないでしょうか。

新古今和歌集(1205年撰進)には――、

『ちはやぶる 香椎(かしい)の宮の 綾杉(あやすぎ)は 神のみそぎに 立てるなりけり』(:読み人知らず)

――という歌がありますが、
“みそぎ”は“御衣木”と表記され、『みそ=御衣=お召し物』 『き=木・着』 の合成語ですので、この歌の意味は――、

『香椎神社の綾杉の木は、神様の御衣木(=お召し物の木を着て=依代の木=御神木)として、立っているのだなぁ』

――というような意味になります。

一方、“御衣木(みそぎ)”にはこれ以外に『神仏の造像に用いる木材』という意味もあり、仏師が造仏に先だって“御衣木加持(みそぎかじ)”という密教系の儀式を行う慣習もあります。

要するに、“みそぎ”という言葉に、『神の依代(よりしろ)の木』と『造仏用の木材』という2つの意味が相乗りしているわけですが、このあたりの語意の融合は意味深長で、当時の“神仏習合”の心理的なプロセスを代弁しているように感じます。

以上、古代~中世人にとって、仏像・仏具の制作に用いた“樹木”は、“祈りの対象”でもあったということについて、思いつくままに述べてみました。
当時の宗教的心情として『樹木を神仏として敬う信仰心』が一般的であったことは、鎌倉彫の古典作品を鑑賞する上でも、重要なポイントになると思います。

最後に、聖域の樹木を使って道具類を造る習わしは、他の諸芸道の分野にも数多く見られることを付記します。(:その一例


  ウ.笈(おい)
 示現寺椿文笈・・・・・・・(室町時代)
 中尊寺椿蓬莱文笈・・・・(室町時代)

◆“笈”は、修験者(しゅげんじゃ)や行脚僧(あんぎゃそう)が、経巻・仏具・衣類を入れ、背負って歩く箱型の葛籠(つづら)のことで、素材の違いにより“竹笈”と“板笈”の2種類がありますが、鎌倉彫の古典作品は“板笈”に属します。(※歌舞伎の“勧進帳”で弁慶が背負っています。)
修験道の教義によれば、笈を背負うことは『行者が母の胎内にあること』を意味するらしく、行者の宗教的な“生命力”を守り育むという意味で、非常に重要な法具であると考えられます。

※修験道は、日本古来の山人の山岳信仰が、仏・道・儒教、シャーマニズム、神道などの教義・修行法を吸収しつつ、平安末頃に体系的な宗教形態をとって成立したと言われます。
7~8世紀ごろに、葛城山で修行した役小角(えんのおづぬ)は、修験道の始祖として有名ですが、平安時代になると、山岳で修行する密教僧が増加し(:醍醐寺三宝院の聖宝、比叡山の回峰行などがその一例)、
そうした流れの中で、
超自然的な験力を修め、加持祈祷の効験の著しい行者が『修験者』と呼ばれるようになりました。

修験者集団には、三井寺を中心とする“熊野三山系”、そこから派生した“本山派”、近畿の廻国修験者が金峰山に拠点を置いて結成した“当山三十六正大先達衆”、九州一円の修験道の中心である“英彦山(ひこさん)”の系統などがありますが、鎌倉彫の笈は、そのほとんどが東北地方に残っており、出羽三山系
(:“本山派”の系統に所属)の修験者との関わりが深かったと考えられます。

※鎌倉彫の笈の意匠はほぼ例外なく「椿文様」ですが、これは何故なのでしょうか?
・・・はっきりとは分かりませんが・・・、
出羽三山の湯殿山(ゆどのやま)には、修験道の極北点とみなされる“即身仏”の行法が伝えられており、その行法の中には“五穀断ち”“十穀断ち”『木食行(もくじきぎょう)』を修行するプロセスがあるので、そうした荒行を彷彿させる植物として、丸い大きな種の実を結ぶ「椿」は象徴的なモチーフだったのかもしれません。。。

【参考】『木食行』・・・
肉類・五穀・十穀を食べず、木の実や草の根などを食べて修行することです。中国の道教や神仙術の影響を受けていると考えられます。極端な食物摂取の制限を通じて、宗教的な身心統御を成就し、非凡な霊威を身につけて、その霊威力を衆生済度と即身成仏に回向(えこう:「振り向ける」という意味)しようとしたようです。
これはあくまでも想像ですが・・・、
「椿の実」は木食行者にとって、たいへん有り難い存在だったのではないかと思います。

『椿と修験道』の関連性を彷彿させる古典的な民俗学の論考を
 2つご紹介します
(※)柳田國男先生は『椿は春の木』
(昭16)の中で、
『奥羽地方の神社に群生する椿は、鳥が実を啄んで一息に飛ぶ5~7倍の距離間隔で一団の林を成している。椿が雪国に入り得たのは、椿を持参して諸国を遍歴した“宗教的旅人”に負うところが大きいのではないか。木へんに春と書く“椿”は和製の漢字であり、上代の朝廷の正月の儀礼に必ずこの木を用いたのは、椿が「春を告げる木」の象徴として公認されていたからである。奥羽地方においても、積雪を耐え忍んでようやく迎えた“春の歓び”を表現する上で、「椿」は最適な植物であっただろうと考えられる。』(要点略述)と述べておられます。

(※)和歌森太郎先生は『修験道史研究
』(昭18)の中で、
『中世以来、山伏(=修験者)には春秋2回の“大峰入り”をする習わしがあるが、春の峰は“華供の峰”とも言われ、4月4日の大峰の戸アケの後に入峰して蔵王堂に華(はな=花)を供え祀る。これは、農民が田植え直前に入山して花を摘み帰り“田の神”を祭る「春山の祭事」に習合した行事であると考えられる。』(要点略述)と述べておられます。

【さらに『日本の意匠事典』(:岩崎治子著。岩崎美術社刊)から“椿”の解説を要約してをご紹介します】
『一般に常緑樹は“聖なる木”で、特に椿は神事に重要な役割を果たした。椿で作った杖・槌は悪鬼を駆逐すると信じられ、奈良・平安時代には、正月最初の卯の日に卯杖・卯槌が天皇に献上された。また、修験者の護摩焚きで生じる椿の煙・灰には、災厄・悪霊を追い払う特別な呪力があると考えられていた。』

【また、『NHKスペシャル 和食 千年の味のミステリー』には、おおむね以下のような解説がありました】
『良い日本酒、良い醤油などを醸造するためには、「アスペルギルス・オリゼ」という特殊なカビが必要。このカビは自然界に存在せず日本だけに存在するため、日本人によって人為的に培養された可能性が高いと考えられている。ところで、このアスペルギルス・オリゼの培養には、殺菌力の強いアルカリ性の「木灰」を利用する工程がある。この工程に最適なのが「京都大原名産の椿の灰」で、すでに室町時代にはこの「椿の灰」が有効利用されていたらしい。日本酒の醸造では、遅くとも10世紀初頭にはオリゼが利用されていたと推定できる文献資料がある。椿は現代の種麹業者からもとりわけ大切に扱われている。』

・・・う~む・・・こうして見ると、
『椿』の役まわりには、宗教的・秘術的な色彩が濃厚に漂っていて、
なかなかミステリアスですね。
(※“椿灰”は染色用の“媒染剤”としても用いられるそうです。。。)

ちなみに、
椿の実を原料とする“椿油”が食用に供されたという記録は、8世紀後半あたりから文献に登場するそうです。
オレイン酸を多量に含む“椿油”は、「抗酸化&抗固形化作用に優れる」という特徴をもっており、そのお蔭で――、
食用油・整髪油・スキンオイル・艶出し油・錆止め油・塗料の溶剤・薬用油・便秘薬・・・
――等々、多様なシーンで幅広く利用されるようになって行きます。

一方、木食行は、
修験者が“即身仏”になる準備(≒ゆるやかに餓死してミイラになる準備)をするうえで重要な行法だったと考えられますが、極端な荒行であるだけに、志なかばで“病死”してしまう行者も沢山いたらしいです。
“木食行”を首尾よく成し遂げるには、特に冬場の山籠もりの自己管理が重要だったようで――、
『基礎代謝調整』 『体脂肪調節』 『体温維持』 『消化・排泄・内分泌・免疫などの機能保全』 『凍傷予防など皮膚の健康管理』
――等々の生理面のケアにも、細心の注意を払う必要があっただろうと思います。

山の中で、彼らが「木の実」や「草の根」をどんな風に食し、どんな工夫をして“木食行”を成し遂げたか・・・
今となっては“謎”の部分も多いらしいですが、
椿灰・種麹・椿油などの試用・試作・実用には、修験者の“修行現場”での実体験が深く関わっていたような気がしてなりません。

山野に自生する『椿』は、
修験者の修行に不可欠な“霊験・薬餌・薬効”を齎(もたら)してくれる“魔法の木”だったのではないか・・・
だからこそ、修験者の宗教的生命を象徴する“笈”の彫刻意匠として、『椿』が選ばれたのではないか・・・
・・・そんな想像をひそかにめぐらせています。


◆『中尊寺椿蓬莱文笈』を筆頭として、鎌倉彫の笈には彩漆(いろうるし)で豊かに彩色された形跡のあるものが多く、一見すると、中国渡来の彫漆器である“紅花緑葉”のムードが漂いますが、けれんみの無い椿の意匠、キメ彫による簡素な輪郭処理、塗り分け彩色技法には、日本固有の伝統的な彫木彩漆の様式が使われており、灰野先生は、
『平泉を中心とする文化圏が生んだ、日本古来の仏師の伝統的木彫装飾技法の産物だろう』
と推測しておられます。(『鎌倉彫』京都書院刊P.287要旨)



  .鉦架・鉦架支板
 
阿弥陀五輪塔図鉦架(室町~桃山時代、1573~92年)
 阿弥陀来迎図鉦架支板(室町~桃山時代)
 阿弥陀位牌図鉦架支板(室町~桃山時代)
 阿弥陀三尊図鉦架支板(室町~桃山時代)

鉦架は、象鼻型の“架”と、架を差し込んで支える“鉦架支板”から成り、雅楽で使われる“鉦(または鉦鼓)”と呼ばれる金属製の打楽器を“架”に吊るし、鉦を吊るした鉦架全体を首から胸に下げ、鉦を叩いて“踊り念仏”の拍子を取るための仏具です。

◆もとは空也聖人(903~972年)が発明したと伝えられ、六波羅蜜寺の空也聖人像は、これを下げて布教している姿を表したものです。
『一遍上人(1239~1289年)絵伝』にも、時宗の僧侶が鉦を叩いて布教する姿が描かれています。

◆浄土系の法具なので、当然ながら「阿弥陀三尊」や「来迎図」をモチーフとした意匠が中心ですが、総じてほのぼのとした彫り口で、黒地に朱・緑・金箔などの彩色を部分的に控え目に施した作例が多く、素朴かつ庶民的であると同時に、したたかで力強い“野趣”が漂う作風が多いです。

意匠がいわゆる“充填文様”でないため、地(:背景)の黒色の面積が広く観察できるところが特徴的で、
(・・・この背景の黒地の面積が広まる傾向は、程度差はありますが“笈”にも観察されます・・・)
怨霊・鬼神・魔性の存在を否定した浄土系鎌倉新仏教の、優しく、おおらか芯の強い内面性が、そのまま作品化されているような印象を受けます。



  オ.会所・書院の飾り物類

◆応仁~戦国時代中葉を生きたお公家さんである三条西実隆の日記『実隆公記』には、“鎌倉物”と呼ばれる香合を“禁裏への進物品”として贈った旨の記載がりあり(:関連事項はこちら)、この頃、禁裏・公家・将軍家などの会所・書院の飾り物として、一定量の“鎌倉物”(:おそらく現在の鎌倉彫に近い彫木漆器)が用いられていたと考えられます。

◆当時、「会所」とよばれていた喫茶の場では、室礼(しつらい)の一環として茶道具を飾る習慣があったらしく、主流の“唐物(からもの)”の茶道具に混じって、“鎌倉物”にも一定のファンがいたのだろうと考えられます。
(※当時の“飾り付け”の諸記録は、『室町殿行幸御飾記』『君台観左右帳記』『御飾書』などに残っており、『よくわかる茶道の歴史』谷端昭夫著 p.54~55に、足利義教の会所の復原図入りで、やや詳しい説明があります。)

◆この時期の会所は必ずしも「書院造(しょいんづくり)」とは限らず、
『まだ点茶の作法が成立していたとは考えられられない』とのことなので、“茶道具”というよりは、飾り棚に置くインテリア小物のアクセントみたいな切り口で、眼の肥えた好事家に面白がられたのかもしれません。

◆当時の会所や書院で、そんなふうに飾られた可能性のある室町期の香合の作例が、『茶の漆芸 香合』(:池田巌著 淡交社刊)に写真入りで詳しく載っていますので、興味のある方はご覧になって下さい。



■■以上、「須弥壇」から「会所の飾り物類」まで、『鎌倉彫の祖型』と言われる“歴史的な作品例”をながめてみました。

こうして通観しますと、
もともとは“禅宗寺院の造営”と呼応しながら制作された「元祖・鎌倉彫」の作風が――、
あるいは、時宗・浄土宗・真言宗などの他宗派から受け容れられ、
あるいはまた、貴人達の喫茶空間を装うインテリア小物としても可愛がられて、
(・・・修験道の“笈”については独自の発生ルートを辿った可能性がありますが・・・)、
――各々の使用者の気風に適
(かな)った、微妙に趣きを異にする作品群が、今日まで大切に保ち伝えられて来たことが想像できます。

異なる世界を生きる様々な人間に揉まれながら、実直に育って行った鎌倉彫の成育過程を、多少とも興味をもってご覧いただけたなら嬉しく思います。

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(※5)“慶派の仏師”とは?

◆鎌倉の仏師については――、
『鎌倉の彫刻』 三山進著・矢萩和巳写真 東京中日新聞出版局刊

――に、素晴らしい写真入りで、分かりやすく解説されています。(鎌倉に興味ある方、おススメの1冊です!)

◆この本によれば、
鎌倉に初めて慶派の仏師が招請されたのは、1185年
(:平家が壇ノ浦で滅んだ年)に創建された

勝長寿院(:頼朝が父義朝の菩提を弔うために建立)のご本尊・丈六金色阿弥陀如来像の造像を、
奈良仏師である
成朝(せいちょう)に注文した時のことで、
史書「吾妻鏡
(あずまかがみ)」に、
成朝は同年5月21日に鎌倉に着き、同年10月21日に尊像を完成した、とあるそうです。

(立像ならば5メートル弱、座像だとしても2.5メートル弱の高さの仏像が、なんと、たった5ヶ月で完成してます!)

◆頼朝が奈良の慶派仏師(:奈良仏師)を選んだ理由――、
・平氏・公家などの旧勢力の息がかかった、貴族文化の影響下にある京都仏師(:院派、円派など)を嫌った。
・1180年に平重衡(しげひら)が東大寺・興福寺を焼き打ちしたが、その修復に携わっていた南都仏師は、東大寺・興福寺の復興に理解を示す源氏の新政権に対して、感謝と敬意の念をもっていた。
――あたりが考えられます。

成朝は奈良仏師の正系で、1194年には興福寺金堂阿弥陀浄土の造仏で“法橋(ほっきょう)”となりますが、若年で死去し、後を継ぐ者がなかったせいか、成朝の系統は彼で途絶えています。
※法橋・・・僧綱(そうごう)の位階の第三位。高位から、法印(ほういん)・法眼(ほうげん)・法橋の順に続く。

◆成朝の尽力が功を奏し、慶派仏師への信頼を深めた鎌倉幕府は、その後も鎌倉地方の寺院の造仏を慶派仏師に下命するようになります。

◆慶派仏師というと、まず頭に浮かぶのが「運慶」「快慶」ですが、
三山先生の本によれば、
「快慶」は鎌倉地方とはほぼ無関係に活動しており、
「運慶」の“鎌倉入り”も、疑問視~否定視する向きが強い模様です。


運慶の奈良・京都での活躍が本格化したのは、1195年以降だそうですが、これに先立って――、
・伊豆 願成就院(北条時政建立)の阿弥陀三尊・不動明王・多聞天・・・1186年造立
・三浦半島 浄楽寺の毘沙門天立像(和田義盛発願)・・・1189年造立
――など、関東武士の注文にも応じています。
問題は『この際に運慶自身が東国を訪れたか否か』ですが、三山先生は――、
・吾妻鏡に“運慶下向”の記録が無い
・そのころに奈良で重要な仕事(:永久寺のご本尊造立や興福寺南円堂再興)が立て込んでいた
――などの理由から、「運慶は奈良を離れず、作品だけを送り届けた」と想定しておられます。

「鎌倉地方仏師」という視点から見ると、
平安時代頃の鎌倉地方には、何らかの経緯で造仏に従事する者が既に存在したようですが、「鎌倉地方で生まれ育って造仏の仕事に従事した」という、厳密な意味での『鎌倉地方仏師』や、そのような仏師の造仏工房である『鎌倉地方仏所』については、今のところ“誕生の経緯”がはっきりしないようです。


鎌倉に住んでいたことを“肩書”に明記した最も早い時代の資料は、1365年に円覚寺塔頭の明巌正因座像を造った「美濃房院応」(:“院応”は院派仏師ぽい名前ですが)で、この人が文献資料的な「鎌倉地方仏師」の第1号と見なされているようです。

「鎌倉仏所」という名称が、歴史資料に現れるのはもっと時代が下った1512年のことだそうで、史料的にみると「鎌倉地方仏所」が成立するのは、16世紀に入ってからのことになってしまいます。

しかし残された作品群の地方色の濃さから推しても、
実際には、13世紀半ば頃には、地方仏師の集団が鎌倉周辺で活躍していたはずです。


光触寺頬焼け阿弥陀縁起絵巻には、「かめかやより仏師を請じ」た旨の記述があるそうで、かめかや=亀が谷=現在の扇ヶ谷・泉ヶ谷付近の地域(:寿福寺門前を含む)に、仏師が集まって仕事をする「仏所」が存在していたと考えるのが妥当であると考えられます。
※江戸時代には、代表的な鎌倉地方仏師がこの地域に仏所を構えていた記録があり、「扇ヶ谷仏所」とも呼ばれました。

そうした創成期の「仏所」で仕事をしたと思われる代表的人物の一例として、三山先生は「幸有(:1251年造の円応寺初江王座像の作者)を挙げています。


       -------------------

【お茶との関連】――鎌倉・室町時代――

◆このあと、回を追って順に調べて行く予定でもありますので、
(また、これまでお話した「鎌倉彫の歴史の概略」と重複する部分も出そうなので)、
主要な話題になりそうなキーポイントだけを、箇条書きにするにとどめたいと思います。
※まだ勉強中ですので、見逃しているキーポイントがあるかもしれません。後日、追加や省略が出ました場合はご容赦ください。

①禅院の茶 
・臨済禅をもたらした栄西
(ようさい)の「喫茶養生記」(1214年)
・茶の湯の手前・作法のルーツとなったと考えられる禅院の「茶礼」
・南浦紹明(大応国師)が持ち帰った台子・茶道具一式(1267年帰国)
・そのほかに、奈良西大寺(律宗)の叡尊
(えいぞん.1201~1290)の「儲茶(しょちゃ)」など

以上は、後の茶の湯の“精神面のルーツ”を探る上でも重要かと思います。“袖香合”など、鎌倉彫と通い合う要素が出て来ることを期待しています。

②会所の茶 
唐物の流行と喫茶の大衆化に促されて、寺院外で生まれた新たな喫茶形態
・・・会所での喫茶。一服一銭・門前の茶屋など。
その他、金沢文庫で有名な金沢貞顕
(1278~1333)の会所での茶愛好など。※特に「会所」は当時の一大文芸サロンとして重要
・闘茶(とうちゃ)の流行(室町中期)
・足利義満の「室町殿」の会所と東山御物  
・足利義政の「東山殿」の会所と
 同朋衆(能阿彌・芸阿彌・相阿彌など)

以上は、喫茶形式の多様化と「道具執心」がテーマとなりそうです。唐物を中心とする「道具執心」は、彫漆~鎌倉彫の関係を考える上でも重要そうです。

③隠者の系譜・・・わび茶
隠棲的修行者~鴨長明~草庵の茶室(南北朝期)~珠光~宋伍~紹鷗~利休・・・・と続く“茶の湯者のこころの系譜”

以上は、たいへん重要だと考えています。
というより、このコーナーのメインテーマに直結する最重要課題と思われ、この“こころ”が会得できれば『茶人が鎌倉彫の何を気に入ってくれたか』についても、自動的に得心が行くような気がしています。。。
(会得は無理でしょうし、推し量って言葉に表すのも不可能そうですが・・・まぁ、やれるだけやってみます。)

久松真一先生は、
五山周辺に生まれた諸芸道文化に共通する条件を――、
   不均整・簡素・枯高・自然・幽玄・脱俗・静寂
――の七つの徳性にまとめておられますが、
ともすれば“現代の生き方”とは逆行するこれらの徳性を、自在に創造し、共有し合える“茶の湯者のこころの内実”に迫ることができれば、今後の自分の人生にも、多少の見通しが開けるのでは・・・と、ひそかに期待しています。

④為政者の系譜・・・会所の茶の展開
もうひとつの視点として、義教・義政~信長~秀吉・・・と続く「会所を盛りたてた為政者」の系譜にも、可能な範囲で、触れてみたいと思います。
これは、③に憧れて③に成りきれなかった人たちの系譜とも考えられます。
特に秀吉と利休との関わり方を探りながら、
現代にも通じる話題として、二人の茶の湯者の“真逆の在り方”を見つめてみたいと思っています。


      -------------------


◆以上で、今回の『鎌倉彫の歴史概観―茶の湯との交点を探る―PART2』を終わります。

鎌倉彫の古典作品を見るたびに思うことは――、
どういう人たちが、どんな気持ちで、これを造り、使ったか?
――ということです。

しかし、中世の造り手・使い手・集め手には――、

・新しい理想を形にする意気ごみで“僻地・鎌倉”に乗り込んだ「慶派仏師」
・同じ意気ごみで浅草をはじめとする諸国から集結した「宮大工」
・はるばると命懸けで中国との間を行き来し“宋・元文化の請来と和様化”に努めた「禅僧」
・時代の変化に翻弄されながら“鎌倉物”の風雅な野趣を愛好してくれた「殿上人(てんじょうびと)」
・常人には耐えがたい“木食道”や“即身仏”の修行に本気で打ち込んだ「修験者」
・極楽往生と衆生済度のために鉦を叩いて市中を踊り歩いた「念仏聖(ねんぶつひじり)」
・簡素な方丈の室で孤高の“真・善・美”を追求した“隠者のこころ”を受け継ぐ「茶の湯者」
・天下統一と威光顕示のために茶の湯を利用した「権力者」

――などなどが入り乱れており、平均寿命24歳という、ある意味とんでもなく切ない時代に、鎌倉彫に関わった人達は、つくずく“ただ者”ではない人ばかりだと思います。

現代の「科学的合理性」の視点に立つと、
ちょっと理解し難いような“宗教的信念”や“思想的なこだわり”もあり、現代人が彼らの内面を正しく推し量るのは、容易なことではなさそうです。

調べていると、
中世人がとっくに諦めていたことを、現代人は必死に追い求めているような・・・
そして、現代人がとっくに諦めていることを、中世人は必死に追い求めていたような・・・
そんな気持ちさえしてきます。。。

しかし、彼らが“中世”という苛酷な時代を、その時代なりの精一杯の知恵や情愛で、必死に生き抜いたことは、紛れもない事実です。
そして、その事実の積み重ねの上に『歴史』とか『伝統』とか呼ばれるものが形づくられ、私達の“今”を、見えない巨大な力で支えくれています。

『歴史はくりかえす』と言いますが、止みがたく繰り返される本質的な“何か”を心底理解できたなら、“今”を見る目も、より簡素かつ自然になって、明るく新鮮な未来を開拓できるような気もします。。。

・・・何が言いたいのか、自分でも分からなくなってきたので、今日はこの辺で。(笑)

いつもながら、最後までお付き合いいただき、ほんとうにありがとうございました。m(__)m


※次回は「栄西禅師」を予定しています。 2013.8.10記

                            (つづく)

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 (↑)添い寝をしてくれてるニンです

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